2018-05-24

朗報⑤




画家の柿本セエカさん(Seheca Cachimoto)さんから
素敵な絵と感想を貰いました。
絵は勿論、出版したイコノグラフからイメージしてもらいました!




「ICON O GRAPH」を読んだ



僕の中で、「ICON O GRAPH」は終わり、そして、いままた始まっている。
自分が、この「装置」のどこから入り、どこから出たのか…まだ、はっきりとはしていない。

アレゴリーと象徴を帯びた大小様々のモチーフに誘われるように、僕はその世界に迷い込んだ。
すると、その機械仕掛けの舞台は、ゆっくりと回転を始め、僕はその刻々と変わるその美しく、

ときに儚い舞台を、僕の心の覗き穴から見つめるているほかなかった。



美しく構築された意表を突く「詩」が、人々の意識のプリズムによってわずかに屈折しながら、ある一筋の光を定められた方向へと伸ばしてゆく。




ストーリーは、時に隠蔽され、時に登場人物たちそれぞれの「思い」が弾け出すかのように、また、時に静謐な言葉で語られながら、夕方の空をどこからともなく急いで巣に向かい集まり来る鳥たちのようにわずかに収束するかと思ったとたん、また、未知の空へと拡散する。
繊細なディテールと極度に制御された情景描写のせいで、僕らはそれぞれの「思い」に寄り添いながら、その濃密で精緻な言葉の世界に浸出していく…


不思議な小説だ。




気まぐれに変化する文体や形式、そして不規則なシーン展開、唐突に見える聖書の引用、複雑に交錯し入れ替わる視点と人称…それは一見、バラバラで統一性に欠ける単なる断章のコラージュに見えて、しかし、この小説は散漫ではない。




それどころかむしろ、その言葉たちは、稠密ともいえる確固とした一個の巨大な構造体の歯車の群れであり、巨大な精密機械を大きくうねらせながら、

まるで入れ子の宝石箱を次々に開いてゆくように読む者を幻惑する


「ICON O GRAPH」


それは、それ自体がまるでまっしろな本の形を纏った天文時計のようであり、その中で物語は、現実世界にいる僕らに関係なく独自の時を刻んでいて、その扉を開けた者だけが機械仕掛けの大きな歯車に乗せられて運ばれてゆく仕組みなのだ。


「『ICON O GRAPH』体験」とも呼べる貴重な時間…その深い時の底に、ゆっくりと音もなく沈んでゆく「記憶」と「思考」が、画家としての僕のイマジネーションをどこまでも刺激して止まない



柿本セエカ(画家)














 書籍紹介と他の方の評価は
こちら→http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/07/icon-o-gprah.html



2018-05-17

メモ






酒井抱一 メモ

酒井抱一の「夏秋草図屏風」は本物を見たせいか何度見ても感動が蘇る。何よりも彼の師弟愛に感動する。会ったこともない尾形光琳に魅入られて自分の足でほとんどの作品を探して模写をした。

一般的な解説では抱一は画家として尾形光琳を尊敬していたとしか言わないけど、私はそれだけではないと思う。尾形光琳と抱一は似てる人生だったことから投影もあったのではないかと思うのだ。
尾形光琳も元は遊郭通いの遊び人で、借金までしたいたのに真面目な絵師となり、法橋を得た。法橋とは高僧が得るものだが、絵師にも与えられた。

抱一も女遊びに関しては「似たような」ところがある。そして、酒井抱一が月の光を銀に表したことは、尾形光琳の金への挑戦というのも無いと思っている。(そういう解釈をしているのもあった)

抱一は、草木が縺れては寄りかかっているという繊細さを描き出せている。これは尾形光琳には無い儚さと繊細さだ。何故、彼は銀だったのかは、仏教のひとつ「密教」の言う月輪を意識したと私は考える。(彼は浄土真宗だが) 仏教の教えは世界中に散らばってしまったが、密教では月輪の中に「仏」は在ると言う。

尾形光琳の金は、美術的価値を高めるためだけの金ではなく、お釈迦様の涅槃の絵がよく金色に光っているのも影響していると私は思う。仏教は金で装飾したものが多い。

その仏の輝き(金) を追って彼は銀に辿り着いたというのが私の考え。彼は単に月夜や草花を使って画力を試したのではなく、尾形光琳を追いかけて仏を探したのだと思う。だからこそ余白に言い知れぬ侘び寂びがあり、彼が探した仏があるのではないかと感じさせた。

この絵は尾形光琳の風神雷神図の裏絵だった。
雷神の裏には抱一の雨に打たれた夏の草花が、
そして風神の裏は秋の草花が見えるように
なっていた。

尾形光琳が威風堂々としているのに対して、
酒井抱一は追いかけていた情熱があるせいか、
辿りつかないもどかしさもあり、何処と無く切ない。

(画像だと銀だと分かりにくいが背景は銀である)

*浄土真宗と密教の話から、高野山まで話すと
疲れるので、所詮は絵の感想というか、メモということで

2018-05-07

Shining










メモ(メモですので無責任な発言もあります)

  シャイニングについて


 短編と長編の違いについて、シャイニングの原作と映画の違いによって説明しやすいことに気づいた。小説を書いている身から見てみると、大体2時間程度の上映時間を制作側は長編として捉えているか、短編として捉えているか、総集編として捉えているか違って見える。主に総集編として捉えているのはアニメや漫画を実写化した場合が多い。




2018-04-26

Dekalog episode5





デカローグ エピソード5(ある殺人に関する物語)


 ――恩赦の請願は却下された
 ――誰が弁護しようとも、判決は決まっていた


 まるで晴れることがない天候を表すかのように、このドラマは緑色のフィルターを使って撮影している。監督キェシロフスキによると、不要なものを取り去るためにこのフィルターを使ったようだ。この不穏な天候に相応しい登場人物達が一人、また一人と集まってストーリーを紡いで死刑執行という秩序を完成させていく。その冷徹さが秀逸だった。まずは殺されることになる太ったタクシー運転手。妻がいながら若い女性に色目を使い、乗客を選んでしか乗せない。悪戯にブザーを鳴らして子犬を驚かせては嫌味を吐く。時々は犬に餌を与えるなど、善人な一面も見せるが鑑賞者は誰もこの嫌味な男に好意を抱かないだろう。

 次に、ヤツェック。まだ二十歳の若い青年は、着々と殺人までの準備をしている。彼は事故で妹を失っていて、それから変わってしまったようだ。彼は殺人に使う道具を購入するだけではなく、自分の末路を予見していたかのように、写真屋に妹の聖体拝領の写真の引き伸ばしを頼んだりする。やがて、無差別にタクシー運転手を長い時間をかけて殺害する。

そして主要な登場人物はもう一人いる。それは彼を担当した弁護士だ。

物語は彼の法制度への想いの語りから物語は始まる。
「司法機械とでも呼べる兄弟な法制度が犯す過ちについて考えはじめました。弁護士ならば、その過ちを矯正することが出来る、少なくとも矯正を試みることが出来る、これは立派な社会的機能の一つなのだ」と。







2018-04-23

Dekalog episode4








「デカローグ エピソード4」

普通われわれには、自分が恋をしているのだと認める様々な印がある。
マルセル・プルースト 「失われた時を求めて」




They tell me I’m too young to understand







ちょうど、デカローグのエピソード1で日常とは、プログラミングされたようで、夢のように説明がつかないと書いた後に、アヴィーチーが亡くなったとニュースで見た。彼の曲は何度かカラオケで歌ったことがある。
彼の曲の「wake me up」 もこんな歌詞がある。


They tell me I’m too young to understand
They say I’m caught up in a dream
Well life will pass me by if I don’t open up my eyes。Well that’s fine by me.




So wake me up when it’s all over
When I’m wiser and I’m older
All this time I was finding myself
And I didn’t know I was lost



「彼らは僕に忠告するんだ。僕は人生を悟るには若すぎるってね。続けて彼らは言うんだ。僕は夢を見すぎだって。そうかもね、もし僕が目を開かなければ、人生は通り過ぎるだろう。別に大丈夫さ、目を閉じていればね。


だから すべてが終わった時に起こしてくれないか。賢くなって、年をとった頃に。
ずっと自分を探していたんだ。さまよっている事も知らずに」



*********


  最近になって、自分が元は不可知論者(agnostic)だったことを思い出した。自分のことなのに何故忘れていたのだろうか。旧約や新訳聖書「物語」は昔から好きだった。それとは別で、哲学は存在一つ掘り下げようとするだけで、意識が細分化されるのと同時に暗礁に乗り上げることがある。暗礁、それは怖いことではなかった。それが私の捕まえた(とらまえた) 現実だったし、それが生きている証であって愛した現実だった。カトリックのカテキズムでは不可知論はあってはならないことになっている。それを私はあっさりと受け入れてカトリックに入っている。


信仰を見出してから今まで、すっかり不可知論者だったことを忘れてしまったが、私はあの頃の私も間違っていたとは思えない。 過去があって今の私がいる。でも、今、思い出したことは、隠れていた私が目覚めたと言えるのだろうか? それとも信仰にとって、不可知論者だった過去を思い返すということは夢の中なのだろうかと。記憶は考え方次第で失敗にも見えるし、輝いても見える。今は、不可知論者だった自分も生きていた証だと思えるので否定されたとしても関係無い。

そんな時にこの歌詞が合うなと思った。


もう一度繰り返すと

They tell me I’m too young to understand
彼らは僕に忠告するんだ。僕は人生を悟るには若すぎるってね。
So wake me up when it’s all over
When I’m wiser and I’m older.All this time I was finding myself.And I didn’t know I was lost.
だから すべてが終わった時に起こしてくれないか。賢くなって、年をとった頃に。ずっと自分を探していたんだ。さまよっている事も知らずに。
アヴィーチーさん、安らかに。

2018-04-20

Dekalog episode1








デカローグ エピソード1「運命に関する物語」



クシシュトフは神や魂を信じていない男だった。彼の妹は敬虔なカトリック信者で愛と神を信じていた。その兄妹の間で彼の息子、パヴェヴは育った。パヴェヴが「人は死んだらどうなるの?」とクシシュトフに尋ねると、彼は「その人がしてきたこと」「その人の周りの人にはその人の記憶が残る」と答えた。それに息子はこう返した。「人は思い出のために生きているの?」と。