2015-11-16

memo2015/11/16





Die Liebende ( Rainer Maria Rilke ) 訳・Chris
Das ist mein Fenster. Ebenbin ich so sanft erwacht.
Ich dachte, ich würde schweben.
Bis wohin reicht mein Leben,und wo beginnt die Nacht?

これは私の窓、たった今、おもむろに目覚めたばかり。
私は宙に浮いているようですが、
私の人生は何処へと届き、
そして夜は何処から始まるのでしょう。

Ich könnte meinen, alleswäre noch Ich ringsum;
(私の周りをぐるりと全てが 未だ私のような気がする)
durchsichtig wie eines Kristalles Tiefe, verdunkelt, stumm.
Ich könnte auch noch die Sterne fassen in mir, so groß
scheint mir mein Herz; so gerne ließ es ihn wieder los
den ich vielleicht zu lieben,vielleicht zu halten begann.
Fremd, wie niebeschrieben sieht mich mein Schicksal an.

(私の運命が私を見つめる) 

Was bin ich unter diese Unendlichkeit gelegt,
duftend wie eine Wiese, hin und her bewegt,
rufend zugleich und bange, daß einer den Ruf vernimmt,
und zum Untergange in einem Andern bestimmt.
(詩の翻訳は、私の癖が出てしまうので避けたいところで、
特に取り扱った部分だけ翻訳しました)


Analyse

Das ist mein Fenster「これは私の窓」という始まりは、自分の内部の目覚めと共に、意識出来ない外部への視線を感じさせ、それはEben bin ich so sanft erwacht.「たった今、おもむろに目覚めたばかり」と、ゆったりとした時間を感じさせます。

「窓」のような人間の生活と心に密接に関わっているものを使って、「Bis wohin reicht mein Leben」(私の人生は何処へと届き)と、到達しえない眼路の限界と、その限界を補うための詩情、「und wo beginnt die Nacht?」(そして夜は何処から始まるのだろう)と、混ざり合っていきます。
そしてすぐに「私」はIch könnte meinen, alleswäre noch Ich ringsum;(私の周りぐるりと全てが未だ私のような気がする) と、それによって内と外との境界線を失います。

私の窓、「 eben、たった今」この窓とは、この詩の中では外の世界と繋げる存在でもあり、隔たりにもなっている。恋する彼女は外の世界を通して彼への想いや気づきを「窓の外という客観性」として具象化しています。 けれどもこれは紛れもなく彼女の内省なのです。 客観性という証拠は、sieht mich mein Schicksal an.(私の運命が私を見つめる)と、窓の外からの視線を気にかけているところです。
 このように、内省とは別に彼女の存在は窓の「内」にあります。期待を抱こうが、不安を抱こうが目覚めた「今」とは、ただ自分が開かれた窓の内側にいることです。


―Eindruck―

「私」と、こ の相手との関係の詳細は分かりませんが、想う相手が心の中にいるという現象を忠実に具象化したように思います。想う相手が心の中に居るということは、佇立している静かな存在では無いからです。この詩は 「私」と、「想い人」二人の間に何らか しらの干渉者、管理者(例えば神)を置かずに、外の世界を窓だけで表現しているというのが私の分析です。文学者はこういった細かいところを見られながら、 宗教観等が分析され少しづつ脱がされていきます(もちろん、この詩だけで判断はされませんが)。  それでも文学者は作品と共に本当のところは分からない芸術品になることだと私は思います。 

私 にとって詩を読むということは、感情でただ共感するだけでは無く、どう自然を捉えていたのか、どう無を捉えていたのか、どう存在を捉えていたのか、 夜、 闇とは、光とは?どう捉えていたのかと、著者の価値観を捉えていきます。でもそれは深く考えるというより観るに近いことが理想です。
詩の読み方・・・・・・小学生の先生が教えたように調べたりもせずに感じること、自分の心に素直になること、詩の読み方は確かにそれに尽きます。それはでも今までの備えが生きることなのです。

聖書で言えば 十人の乙女なんか良い例ではないのでしょうか。(マタイ25章)  この灯りの意味を理解すれば分かることでしょう。そうでないと、この思慮浅い乙女に訪れた結末のように扉は開かないかもしれません。 

本来の現実とはこの詩が終わった余白へと向かうことでしょう。何も書かれていない余白世界、それは詩にとっては自分の心とは関係無く 存在している 現実世界なのではないのでしょうか。 美しい詩とは余白まで美しいものだと私は思います。 


****
最近、久しぶりに読んだリルケ詩 集(ドイツ語) が生きているように感じました。詩への理解は 人生経験にも左右されるので何らかしら私が分かるような経験をしたのかもしれません。「私は何を知ったのか」それを逆算するかのように探ってみようかと思 いました。 そこに知識だけではなくて愛等、感情的なものもあるのでしょう。

何に気づいたのか、一つは彼の詩はどことなく現象学的なのではないのかというところです。(全部ではありませんが)それで調べてみると、ハイデガーもリルケについては扱っていたようで、この感覚はどうも間違っては無かったようなのです。
特に感じさせたのはこの「Die Liebende」 です。(der neuen gedichte andere teilより)
(形象詩集にも同じタイトルがあります)
これは、ちょっと思ったことだったので扱いはmemoです。

2015-11-06

info









お試し版以降の話は洗礼後に執筆しました。お試し版となっている白夜までの話は2012年に既に完成させたものです。それから3年間、更なる昇華を目指してきました。


白夜までの感覚を残したまま出版したいと思いますが、発売まで微調整は今後入るかと思われますので、このPDFは完成品の一部でも無いということをご了承下さい。 一作品目、PANGAEA DOLLは虚構の病でした。 存在しなかった病を巡って物語が動いていきました。 

次は虚構の治療です。存在していない治療を巡って、それを登場人物達が「存在している治療」として進んでいく物語です。 




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修理士が存在しない天文時計、

この時計が指し示す運命を誰も読み解けないまま

時は在り続けた。



-------計算された仕掛けと選ばれた部品達-------




光音は死んだ真希の魂が知りたくて片思いの羽根に近づき、羽根は生死の境に行ってしまった恋人を繋ぎとめるドナーとして、逃げる光音の手を掴んだ。

魂、愛、神へと抱いた想いは重ならない平行現象のようで・・・・・・


「走れる靴と走れない靴、私たちは愛の裏で動いていた」


keyword: 魂、祈り、QOL、 (追加予定)





ハーフや色盲という記載については検討中です。

試し読みPDF→(試し読み期間は終了しました)



2015-10-28

L'Enracinement









ーーーよい木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。よい木は悪い実をつけないし、悪い木はよい実をつけない。
(マタイ7章、十六~十七)
―――人間の思惟は時間を支配し、いかなる間隔も乗り越えて、たえず過去と未来とをすばやい速度で駆け巡る。しかし労働する人間は、一瞬から他の一瞬へと順を追って進んでいく物質と同じように時間に服従する。
―――労働者が労働の苦痛を表現するのはこのゆえである。
ーーー肉体労働は社会生活の霊的中心でなければならない。



私は、
クロノス、過去から未来へと流れる外的時間
カイロス、神の決定的な働きが行われる時点、ギリシャ語で
「刻む」という意味もある。好機、機会とも。


に目をつけました。人には統合させなければならない善があって、それに反したり時代と合わなくなると法を変えたり、政治的活動が必要になります。


けれどもそれだけでは無くて、個人の幸福の追求のために、カイロスを覚知する必要性があります。それは貧しくても裕福でも、どんな状況下でも必要でしょう。ヴェイユの著作は制度を変えるような大きな動きは起こせないかもしれませんが、自分がクロノスのような外的世界とどう繋がらなければならないのかというのを、魅せてくれる力はあると思います。

****




眠りから目覚めへと浮上する時、ヴェイユとペラン神父のように、話し合ったことが時間を越えて世界に根付いていきますようにという夢を見た。

その時に、この画像のような絵が見えました。
長針や短針の動きのように、目には見えるだけのものではいものが根を降ろすように実を結ぶというイメージが私の中にはあります。

La grâce lui fait mal.



シモーヌ・ヴェイユが好きすぎて作った画像。

La grâce lui fait mal.
「その恵みは痛い」

ヴェイユだけじゃなくて ペラン神父も
好きです。


web拍手ありがとうございます。

2015-10-20

der Vogel








Sehet die Vögel unter dem Himmel an: 
空の鳥をよく見なさい
Sie säen nicht,
種も蒔かず
sei ernten nicht
借り入れもせず
sie sammeln nicht in die Sheunen;
倉におさめもしない
und euer himmlischer Vater nährt sie doch.
あなたがたの天の父は 鳥(彼等)を養ってくださる。
Seid ihr denn nicht viel mehr denn sie?
あなたがたは 鳥(彼等)よりも価値があるのではないのですか?
マタイ6:26


*********


鳥は ラテン語では(観る)という意味があり、ホロメス等、古代神話では神々の化身と思われてきていた。聖書でも鳥は象徴的な存在として描かれる。
鳥は古代から憧れの存在。そして神の化身という象徴から分かるように絶対性すら持っていた。その憧れの存在よりも私たちは価値があるということは どういう事なのか。


今から話すことは神学的にというより、詩学的に見ることになりますが、神は絶対的なもののために、鳥という憧れの存在を譲ってくれたように思えます。

象徴は絶対的なものと 現実世界を繋ぐ存在です。

物語りを書くとするときに、福音記者やイエスを脚色することはあまり望まれない。ナザレ派の絵画ですら前教皇はナザレの名を汚したと言ったぐらいですから。

そう考えると鳥は自由なのです。階級式に人よりも下という意味ではありません。鳥が神との繋がりがある存在というのには変わりがありません。


鳥は文学や詩人にとっては必要な象徴になる。鳥がイエスや福音記者達と同じ扱いだったらメーテルリンクの「青い鳥」も生まれてないでしょう。私は現実世界と絶対的なものを繋ぐ 詩情や哲学を見つけることは美しいと思うし、それが物語り世界の中で生きることを常に期待しています。









2015-10-01

ein Geschenk


画像→http://www.sofeminine.co.uk/health/study-hard-sp518220.html




Husserl (フッサール)
58 : Die Transzendenz Gottes ausgeschaltet.
Es wäre also ein „absolutes”in einemtotal anderen Sinne als das Absolute des Bewußtsein, wie es anderseits ein Transzendenten im Sinne der Welt.
Auf dieses„ Absolute" und „Transzendente" erstrecken wir natürlich die phänomenologische Reduktion.
••••••Es soll aus dem neu zu schaffenden Forschungsfelde ausgeschaltet bleiben,sofern dieses ein Feld des reinen Bewußtsein selbst sein soll.
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58章 神なる超越は(排除or オフ)されるべきである。
「(それ故それは)意識という絶対者とは、全然別の意味に於ける「絶対者」であろう。同様に又それは他方、世界という意味に於いての超越者と較べても全然別の意味における超越者であろう」
「絶対者」にして且つ「超越者」となるものこと我々は無論現象学的還元を行き渡らせる。
・・・・・・そういったものはausgeschaltetのままに
しておかなければならない。(この箇所は訳を省略させてもらいます)
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私は、この箇所は文学の表現かのように好んでいるのですが、どうでしょう。
書籍はIdeen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophieです。日本語訳版は持っていません。
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フッサール哲学の「超越」とは、神やイデアのことを言っているのでは無いというのは、フッサール哲学を触れた人なら基本的なことですが、この章では、神という絶対者、超越者に対しても純粋意識の領域で考えるのなら、ausgeschaltenすると記した。フッサールは、神の存在を最終的に*軸にしたデカルトとの違いを見せた。
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私は、ausgeschaltetとは、排除という意味ではなく停止する、一旦オフするという感覚だと私は捉えている。 オフということは、オンされた状態も含んでいるが、機能していない事だと私はイメージしている。日本語では適切な言葉が思いつかないので誰か、分かる方がいるのなら教えてください。
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フッサールのこの書籍の中での神の定義は「世界という超越に対し、両極端に「対立」し、間接的に認識される超越。神という超越は即ちそれなのである」と
している。色んな宗教や神という言葉の意味を記号化させたようだ。 比較宗教とも取らないこの姿勢はまさしく哲学と言えるのかもしれない。
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この哲学は信仰に役に立つというものなのかも分からないし、日常生活にすら役に立つのかどうか分からない。けれども、物語りを考える上では必要な要素だと私は思う。何故なら、このオフにするということは胸が痛むからだ。これを痛むということはアガペーがあるということだ。それを実感する痛みなのではないのでしょうか。
愛は満たされているだけでは、空気と同じようになる。痛みがあってこそ、また実感する。そして、内面に走るその痛みをじっくりと観察し記録することだ。
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そうでなければ哲学者や神学者と、どう差をつけて物語りを書こう。
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恐らく、これは神なんて消しても痛くも痒くも無いという
人間にとっては無意味な展開になると思う。アガペーが無いのなら、神の存在を知らないから、そもそもこの哲学は始まれないのではないのでは。
神が単なる記号である間は、その人は現象学に対して立ち遅れてしまうことになる。
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私のstoryは見る分には普通の小説のように仕上げていくつもり。だって神も現象学も、何気なく人の心の中にあったり、自然と目の前に現れ出ている対象だという事を知っているからだ。それを忘れたら不自然な世界にしか見えない。
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そして、私が対象に目を向けるのではなくて
私が対象として目を向けられることも知る。
それを観察することは可能だろうか。
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ところで、私の仕事部屋ってこれと変わらないところがあるけど、こんなに可愛くないのは何故でしょう。
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**(軸としたという言い方が適切かどうか分からない)

追記:絶対者、超越者を一旦停止させること。

それは私達は絶対者とか超越者を肯定したり否定したりと意識することが含まれるけれども、それらが私達を含めた現象を知るとしたらどうなんだろう。そういう視点からの出発に最高の客観主義があるのでは無いのだろうか。

超越者という出発点は、人間にとっての到達点である。
現象というのは自分が追うだけではなく、追われるということでもある。

けれどもそれは永遠に逆算不可能な事なのかもしれない。

それでも、試みてみることは無意味な事なのだろうか。
未完でも、それは楽しいことではないのだろうか。
私は 楽しい。 


2015-09-15

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facebookページは一時利用停止しています。
15日後、復旧しますのでよろしくお願いします。



2015-07-19

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このブログを書き始めてから4年ぐらい経ちましたが、自分でも読み返す気がおきないほど価値観が変わったりもしてるので、最新の記事以外は全部消しました。今後、残してもいいなと思う記事を公開に戻しますし、このブログをどうしようか考え中です。フリッカーアカウントも削除しました。次回作発売まではwebではあまり活動しないことにしています。興味がある方はhomepageかfacebookへどうぞ。

2015-07-09

El milagro de las rosas





      Cuando Casilda desplegó el manto, cayeronmuchas rosas.

(カシルダがマントを広げると、そこから沢山の薔薇の花が落ちた)


数年前、聖カシルダの話とこの絵が好きで何度も見ていました。スペイン、トレドのモーロ人の王、アルマッムーンの娘カシルダがキリスト教徒の捕虜に食料を内緒で運んでいるところを見つかってしまう。王と大臣に隠し持っているそのマントを見せろと言われて、カシルダがマントを広げてみると食料がバラの花に変わっていたという話です。


この絵のバラは白くて花びらだけでトゲが見えないので聖母マリアみたいで特に綺麗だなと思って見ていました。

チェスはFinal stageで持ち駒が少なくなってきた場合、引き分けを持ちかけるか自分で諦めて負けてしまうのか、勝ちたいと思うのなら閃き次第というときがあります。

それは自分の力なのか、外からの奇跡なのか分かりません。

  Wit or Flash of inspiration ってところなのですが。


無制限に自由に想像する事だけではなく、チェス盤とチェスのルールという制限の中で奇跡を起こすというような話は好きです。聖書にも神話的手段というのがあります。それは神の介入、幻視、託宣、夢、超自然的な表現方法によって実現させていますが、自由奔放な欲望が叶うといったようなものとは違います。

カシルダのように弱者を助ける人間に、神話的手段が実現されたことに注目しました。バラの花に変わったという魔術的な展開、もしくはDeus ex machina(機械仕掛けの神) によって、救われるべき人間が救われるというところが好きかな。(よく見たらカシルダは光輪が描かれてあったのですね)




                               画家:José Nogales 



画像→santa casilda



*フィクションの理想は現実の理想と違って無秩序も存在するので、この理想が正しいと言う気はありませんが。

現実は無秩序や混沌もあるけれども、抱くべき理想とか希望の方向はある程度決まっていますし、それを実現させようという動きが理想です。例えば愛や平和ですね。それに対してフィクションはそれさえも決まってませんね。







2015-05-04

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 ホームページでこういうのを作ってみました。短いながらも出版作品の引用だったり、練ってるものだったりしています。批評は次回作を出版してから出しますし、色々バランスを見ながら増やしていきたいなと。「Murmure」呟きにしました。よくSNSを登録して辞めてるのですが、大体がシステムが合わないという理由です。文字フォントが調節出来ないとか、レイアウトが自分の作風とは合わないとか。自分が確立していないと人を選んだりすることも出来ませんからね。




http://chriskyogetu36.petit.cc/muscat1b/


あとFacebookでこういうのを書きました。会員なら見れると思います。タイトル通り
これはmemoなので、いつかまた原稿かブログかホームページに書き直すと思います。
バルザックのセラフィタについても追加で書いています。


https://www.facebook.com/notes/%E9%8F%A1%E6%9C%88-%E7%8E%96%E7%92%83%E5%AD%90/memo2015323/784355864963830


https://www.facebook.com/notes/%E9%8F%A1%E6%9C%88-%E7%8E%96%E7%92%83%E5%AD%90/memo%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81/767813939951356


https://www.facebook.com/notes/%E9%8F%A1%E6%9C%88-%E7%8E%96%E7%92%83%E5%AD%90/memo/781186895280727



*web拍手いつも押してくれてありがとうございます。



music













                                         Horowitz Scriabin Etude Op 8 No 12










                                                  Horowitz Scriabin Etude Op 8 No 12






                                     



                           Martha Argerich plays Schumann: Kreisleriana, Op. 16