2015-10-28

L'Enracinement









ーーーよい木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。よい木は悪い実をつけないし、悪い木はよい実をつけない。
(マタイ7章、十六~十七)
―――人間の思惟は時間を支配し、いかなる間隔も乗り越えて、たえず過去と未来とをすばやい速度で駆け巡る。しかし労働する人間は、一瞬から他の一瞬へと順を追って進んでいく物質と同じように時間に服従する。
―――労働者が労働の苦痛を表現するのはこのゆえである。
ーーー肉体労働は社会生活の霊的中心でなければならない。



私は、
クロノス、過去から未来へと流れる外的時間
カイロス、神の決定的な働きが行われる時点、ギリシャ語で
「刻む」という意味もある。好機、機会とも。


に目をつけました。人には統合させなければならない善があって、それに反したり時代と合わなくなると法を変えたり、政治的活動が必要になります。


けれどもそれだけでは無くて、個人の幸福の追求のために、カイロスを覚知する必要性があります。それは貧しくても裕福でも、どんな状況下でも必要でしょう。ヴェイユの著作は制度を変えるような大きな動きは起こせないかもしれませんが、自分がクロノスのような外的世界とどう繋がらなければならないのかというのを、魅せてくれる力はあると思います。

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眠りから目覚めへと浮上する時、ヴェイユとペラン神父のように、話し合ったことが時間を越えて世界に根付いていきますようにという夢を見た。

その時に、この画像のような絵が見えました。
長針や短針の動きのように、目には見えるだけのものではいものが根を降ろすように実を結ぶというイメージが私の中にはあります。

La grâce lui fait mal.



シモーヌ・ヴェイユが好きすぎて作った画像。

La grâce lui fait mal.
「その恵みは痛い」

ヴェイユだけじゃなくて ペラン神父も
好きです。


web拍手ありがとうございます。

2015-10-20

der Vogel








Sehet die Vögel unter dem Himmel an: 
空の鳥をよく見なさい
Sie säen nicht,
種も蒔かず
sei ernten nicht
借り入れもせず
sie sammeln nicht in die Sheunen;
倉におさめもしない
und euer himmlischer Vater nährt sie doch.
あなたがたの天の父は 鳥(彼等)を養ってくださる。
Seid ihr denn nicht viel mehr denn sie?
あなたがたは 鳥(彼等)よりも価値があるのではないのですか?
マタイ6:26


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鳥は ラテン語では(観る)という意味があり、ホロメス等、古代神話では神々の化身と思われてきていた。聖書でも鳥は象徴的な存在として描かれる。
鳥は古代から憧れの存在。そして神の化身という象徴から分かるように絶対性すら持っていた。その憧れの存在よりも私たちは価値があるということは どういう事なのか。


今から話すことは神学的にというより、詩学的に見ることになりますが、神は絶対的なもののために、鳥という憧れの存在を譲ってくれたように思えます。

象徴は絶対的なものと 現実世界を繋ぐ存在です。

物語りを書くとするときに、福音記者やイエスを脚色することはあまり望まれない。ナザレ派の絵画ですら前教皇はナザレの名を汚したと言ったぐらいですから。

そう考えると鳥は自由なのです。階級式に人よりも下という意味ではありません。鳥が神との繋がりがある存在というのには変わりがありません。


鳥は文学や詩人にとっては必要な象徴になる。鳥がイエスや福音記者達と同じ扱いだったらメーテルリンクの「青い鳥」も生まれてないでしょう。私は現実世界と絶対的なものを繋ぐ 詩情や哲学を見つけることは美しいと思うし、それが物語り世界の中で生きることを常に期待しています。









2015-10-01

ein Geschenk


画像→http://www.sofeminine.co.uk/health/study-hard-sp518220.html




Husserl (フッサール)
58 : Die Transzendenz Gottes ausgeschaltet.
Es wäre also ein „absolutes”in einemtotal anderen Sinne als das Absolute des Bewußtsein, wie es anderseits ein Transzendenten im Sinne der Welt.
Auf dieses„ Absolute" und „Transzendente" erstrecken wir natürlich die phänomenologische Reduktion.
••••••Es soll aus dem neu zu schaffenden Forschungsfelde ausgeschaltet bleiben,sofern dieses ein Feld des reinen Bewußtsein selbst sein soll.
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58章 神なる超越は(排除or オフ)されるべきである。
「(それ故それは)意識という絶対者とは、全然別の意味に於ける「絶対者」であろう。同様に又それは他方、世界という意味に於いての超越者と較べても全然別の意味における超越者であろう」
「絶対者」にして且つ「超越者」となるものこと我々は無論現象学的還元を行き渡らせる。
・・・・・・そういったものはausgeschaltetのままに
しておかなければならない。(この箇所は訳を省略させてもらいます)
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私は、この箇所は文学の表現かのように好んでいるのですが、どうでしょう。
書籍はIdeen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophieです。日本語訳版は持っていません。
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フッサール哲学の「超越」とは、神やイデアのことを言っているのでは無いというのは、フッサール哲学を触れた人なら基本的なことですが、この章では、神という絶対者、超越者に対しても純粋意識の領域で考えるのなら、ausgeschaltenすると記した。フッサールは、神の存在を最終的に*軸にしたデカルトとの違いを見せた。
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私は、ausgeschaltetとは、排除という意味ではなく停止する、一旦オフするという感覚だと私は捉えている。 オフということは、オンされた状態も含んでいるが、機能していない事だと私はイメージしている。日本語では適切な言葉が思いつかないので誰か、分かる方がいるのなら教えてください。
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フッサールのこの書籍の中での神の定義は「世界という超越に対し、両極端に「対立」し、間接的に認識される超越。神という超越は即ちそれなのである」と
している。色んな宗教や神という言葉の意味を記号化させたようだ。 比較宗教とも取らないこの姿勢はまさしく哲学と言えるのかもしれない。
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この哲学は信仰に役に立つというものなのかも分からないし、日常生活にすら役に立つのかどうか分からない。けれども、物語りを考える上では必要な要素だと私は思う。何故なら、このオフにするということは胸が痛むからだ。これを痛むということはアガペーがあるということだ。それを実感する痛みなのではないのでしょうか。
愛は満たされているだけでは、空気と同じようになる。痛みがあってこそ、また実感する。そして、内面に走るその痛みをじっくりと観察し記録することだ。
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そうでなければ哲学者や神学者と、どう差をつけて物語りを書こう。
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恐らく、これは神なんて消しても痛くも痒くも無いという
人間にとっては無意味な展開になると思う。アガペーが無いのなら、神の存在を知らないから、そもそもこの哲学は始まれないのではないのでは。
神が単なる記号である間は、その人は現象学に対して立ち遅れてしまうことになる。
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私のstoryは見る分には普通の小説のように仕上げていくつもり。だって神も現象学も、何気なく人の心の中にあったり、自然と目の前に現れ出ている対象だという事を知っているからだ。それを忘れたら不自然な世界にしか見えない。
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そして、私が対象に目を向けるのではなくて
私が対象として目を向けられることも知る。
それを観察することは可能だろうか。
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ところで、私の仕事部屋ってこれと変わらないところがあるけど、こんなに可愛くないのは何故でしょう。
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**(軸としたという言い方が適切かどうか分からない)

追記:絶対者、超越者を一旦停止させること。

それは私達は絶対者とか超越者を肯定したり否定したりと意識することが含まれるけれども、それらが私達を含めた現象を知るとしたらどうなんだろう。そういう視点からの出発に最高の客観主義があるのでは無いのだろうか。

超越者という出発点は、人間にとっての到達点である。
現象というのは自分が追うだけではなく、追われるということでもある。

けれどもそれは永遠に逆算不可能な事なのかもしれない。

それでも、試みてみることは無意味な事なのだろうか。
未完でも、それは楽しいことではないのだろうか。
私は 楽しい。