2017-09-14

パーフェクト・レボリューション(9月29日公開)








(はじめに)

 この映画のスポンサーでもあり、映像プロデューサーでもあるAさんの紹介からマスコミ試写会(9/6)に招待してもらいました。この映画の監督でもある松本准平さんとも友達になれまして、とても充実した時間が過ごせました。





2017-09-13

「少年は残酷な弓を射る」







We Need to Talk About Kevin(2011)

「愛情」というものは他者を喜ばせたいと思うことでもある。子どもにとっては、その対象は初めは親だとよく言われる。愛情とは親から与えられるものだけではなく、子も親に対して芽生えてくるものなのかもしれない。親子にとって愛情の印は、お互いの期待でもある。

母親が喜ぶと嬉しい、母親が悲しむと悲しい。
子どもは自然にそれが身について当然のようなことのように思えるが、この少年は母親のことを"mammy"と呼ぶことを拒んだ。



2017-09-04

Dekalog








「デカローグ」

第8話「ある過去に関する物語」


「本当にその若い夫婦が敬虔なカトリック信者なら、何故、十戒の“偽証してはならない”を重視したのかが不可解です」(訳は私)

私が、脇役のこの学生の台詞の意味が分かるのは、キリスト教徒になった後だった。



2017-08-17

私人







「私人」
「もしも芸術が何かを教えてくれるとすればそれはまさに、人間存在の私的性格でしょう。(略)人間を社会的動物から個人へと変身させるのです」
「多くのものは他人と分かち合うことができます。しかし、詩を他人と分かち合うことはできません。芸術全般、特に文学、そしてとりわけ詩は人間に一対一で話しかけ、仲介者ぬきで人間と直接の関係を結びます」
(私人ーーヨシフ・ブロツキー)
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最近、良いなと思った数行の文がロシア関連だったりする。この前のシャネル5番の調香師の話もたった数行で面白いと思ったら、ロシアだった。(調香師の話はfacebookのみ投稿)


諸行無常




画像元:Wikipedia


「諸行無常」
金閣寺放火事件(1950年)
三島由紀夫「金閣寺」と水上勉の「五番町夕霧楼」がこれをモチーフとして小説となっている。
犯人、林承賢と接触があったのは水上のほうらしいが有名なのは三島のほうである。
●自身の障がいと生い立ちに対して光輝く金閣寺に怒りを感じて燃やしたというのが三島。
●仏教(臨済宗相国寺派)として堕落した鹿苑寺(金閣寺)に相反して輝く金閣寺に怒りを感じて燃やしたというのが水上。
事実は両方だったりする。 障がいが故に、鹿苑寺では苛められ、ヒエラルキー構造から出世が見込めないことに絶望して燃やしたという。
今まであんまり金閣寺炎上っていうのに興味を持ったことがなかったけれども、確かにこの時代とタイミングで金閣寺を燃やすというのは、まさしく
「事実は小説よりも奇なり」であり、小説オリジナルだったら凄いなと思った。恐らく現代で同じ障がいがある人が似たような怒りで燃やしても話としてはもう面白くもないのかもしれないし、現代人を使って炎で怒りを表現というのも、単なる迷惑行為であり稚拙になりやすい。


吃音症の人が声をあげたように思われる金閣寺炎上は、現代人の私にとっては「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きなり」を意図的ではなくても表したように思えてしまう。
この時代とは違って、飢えも知らず裕福だからなのか、それとも別の貧しさを知っているからか。
祇園精舎とはインドにある寺院のことで、その鐘の音なんてものは日本には聞こえないが、この炎上は教えに沿ったように声となり、諸行無常となって響いている。

(私は平家物語とか、三島あたりは不案内ですけれどもね。犯罪を肯定しているわけじゃありません)

2017-08-12

info




 最近、ブログやInstagramをマメに更新するようになりました。ブログの更新頻度は、マメとは言っても、やや低めではありますがこれからも宜しくお願いします。

Instagramは更新したジャンルによって、投稿するごとにお勧めユーザーの表示が変わって面白いですね。おしゃれ関係のを投稿したら、モデルさんみたいな綺麗な人とかお洒落な人のアカウントが見れて面白かったです。これも流行っている理由の一つなのかなと。





鏡月 玖璃子













memo 08/12









聞いた話ですが、
"ある日、近所の男性が突然やってきて、一冊の外国人作家の本を紹介した。その後に近所の男は自殺をし、自分はその残された本の翻訳家になった"というエピソードがあって、興味がありながらも放置してしまったので誰だったのか思い出せない。確かバタイユの翻訳者だったと思うし、情報元に聞き直したら、「バタイユの翻訳者だったかな? あとがきに書いてあった気がしたけど」なんて言うのね。
やっぱりバタイユの翻訳者なのかな。もしくはバタイユの本の解説でも書いた人か。
お互いウロ覚え状態で、もう一度その本を探すことになった。
とりあえず探してみます。 
誰かご存知の方はお知らせください。



と、2017年1月にfacebookに投稿し、最近になってこれが誰なのかを見つけた。

やはり、バタイユの翻訳者・研究者の「酒井 健」さんですね。
詳細が分かったので簡単に説明しますと、突然現れた近所の人ではなくて酒井さんの友人のようですね。家に遊びにくるほどの仲で、ハイデガーに精通していたようですが、変わり者で中古のピアノを自分で調律しなおして気分の赴くまま奇妙な音階の楽器を奏でていたそうですね。
それで、ある夜にこの友人が酒井さんに「君にぴったりだ」と、
バタイユの「内的体験」を持ってきたそうですね。
その友人は酒井さんにバタイユを紹介してから一年あまりでこの世を去ります。死因は自殺なのかもしれない・・・・・・確定ではない、そんな感じですね。酒井さんは、それからバタイユ受容への道を行くわけです。(一旦はバタイユの混乱から遠ざかろうとしたけど、段々「感性的体験」によって近づいていく)
中古のピアノを自分で調律しなおして、おそらく音も整ってない状態で、
「気分の赴くまま」というところは数学者の「岡潔」みたいで面白いですね。
実は以前の投稿よりもバタイユは色々知りましてね、語れるほどでもないのですけど、シュルレアリスム自体は十代の頃に思い出があります。
またいつか、その話でもしようかな。


(ちくま新書・バタイユ入門 酒井 健)

(この記事はfacebookに投稿したものを纏めています)

2017-07-21

La porte étroite (狭き門)








「貴方は思い違いをしているのよ、わたしね、そんなに幸福になる必要がないの。今のままの二人で、充分な幸福でしょう?」

La Porte étroite:André Paul Guillaume Gide


●粗筋

  ジェロームは12にも満たない幼い頃に父親を失い、叔父のもとで過ごす。その家に住んでいる従弟のアリサはジェロームよりも二つ年上で、妹のジュリエットは一つ下だった。アリサの母親はたいそうな美人で、この二人の姉妹は母親のようにそれぞれ魅力があったがジェロームはアリサの麗しさに惹かれていた。父親が死んだ二年後にジェロームはアリサに会いに不意に会いたいと思ったので、アリサの母親の部屋を通る。その扉は開いたままだったが、アリサの母が軍服を着た見知らぬ若者に媚態を示しているところを見てしまう。ジェロームがアリサの部屋に入ると、アリサはそのことを知っていて泣いていた。やがてアリサの母は家出する。



2017-07-19

アンケートのお願い







 通っている教会で知り合った方からアンケートを頼まれましたので、ご協力をお願いします。20の質問で世論については普天間飛行場や憲法改正についてです。







依頼・製作:Juan Luis López Aranguren
大阪大学 研究員
Osaka University resarcher.


2017-07-01

vision

(vision)
The wing veins are for the butterfly, its organ, nerves and also its bones. 
When drawing a butterfly, its wing veins must be drawn with precision, otherwise,
 it will only represent a butterfly unable to fly. 
Belief and philosophy are for me like wing veins. 
Creation is for me all about soaring.


Soaring is freedom predetermined by wing veins. 
There cannot be any other freedom.

*******  
蝶にとって翅脈とは器官や神経であり、骨である。蝶を描くとしたら翅脈は、正確に描かなければ飛べない蝶になってしまう。私にとって、信仰や哲学というものは翅脈である。私にとっての創作とは、飛翔によって成り立っている。
飛翔とは翅脈有き自由であって、それ以外の自由は在り得ない。 

--------
 飛翔と翅脈の組み合わせによって生まれるものと矛盾、この命題は蝶のように飛ぶ場所は決められないということ。私達、文学者はそうなのではないか。 

*7年前から決まっていたvisionを手直ししました。





オオルリアゲハの標本。角度によって青からグリーンにかわります。

2017-06-27

ポーの一族(萩尾望都)










●兄さん わたしたちは いつまでも 子どもでいられるの
だから いつまでも はるかな国の 花や小鳥の夢をみていていいのね

●あの子はどこ? 思い起こすだけで 幸せにはなれない。

● そら あなたは また笑う。 
ポーの一族・(はるかな国の花や小鳥の章)




エルゼリとエドガー



2017-06-19

銀河鉄道の夜





主人公ジョバンニは家が貧しくて孤独を感じていました。同乗していた同級生カンパネルラは裕福でしたが、作品の終盤で実は川に流されて見つからないということをジョバンニは知ります。カムパネルラは恐らく死んでしまったのだということになりますが、その死は読者に最後まで謎を残します。

それでもジョバンニは生きる意味を見出して家に帰ります。 この列車の旅は幸福を探す旅であり、生と死に特等席のような違いがありません。違うのは切符です。

この作品の著者・宮沢賢治は何度もこの作品は書き直していますし、出版される前に死んでしまいます。身体が弱く、仕事が上手くいかなかった彼は、自分自身への問いと同時に、人々に寓意や幸せを与える童話作家として「本当の幸せとは何か」ということを模索したのではないのでしょうか。


残された遺族や団体が更に推敲を重ねましたが、初稿が出版されたり、後になって賢治が訂正した(博士が居ないバージョン)版が出たりとしてるので、銀河鉄道の夜は、どの版のを読んだのかによって、話も印象がそれぞれ違ったりしてるようです。

私はこの話は、呼びかけのようなアナウンスの後に、気がついたら列車の中に居たというような目覚めの感覚が好きです。目を見開いたら窓の外に宇宙が広がってるというのは素敵ですね。

天の河、ケンタウルスの祭り、銀河ステーション、カムパネルラが持っていた黒曜石の黒板、白鳥区の北十字、南十字、蠍の火、 カムパネルラはいつ自分は死んだと気付いたのか、カムパネルラにとっては死の目覚めはいつだったのか、私は職業柄のせいかそんなことを考えるようになりました。


ずっとこの話の視点はジョバンニでしたが、カムパネルラはジョバンニが列車の中で目覚める前から目覚めているのか、ジョバンニの意識の目覚めと共に彼等は現れたのか、どちらなのか、そういうことが過ぎります。


カムパネルラはジョバンニとずっと一緒にいると約束をしたけれども、カムパネルラは石炭袋のところで消えてしまいます。私はそれでも約束が破られたとは思っていません。二人はきっとこの銀河の中で魂の繋がりを約束したということになるのです。

死者と生者が限りなく平等に近い星々の旅で。

「本当の幸せ」と「天国」は、生きている人にとっては似てるのかもしれません。追えば何処までも果てしなく続いていて、降りる駅を決めればとりあえず、そこに少しとどまるのではないのでしょうか。
あと、私は宮沢賢治が、人生の道しるべである老賢者(ユング)のようなブルカニロ博士を途中で消した理由を考えていました。


恐らく、賢者を失うことで生者だけが特別なことを知るわけでもなく、死者だけが特別なものが見れるわけでもなく、ジョバンニとカムパネルラは離れた後も、同じように彷徨いながらまだ旅の途中だ・・・・・・ということにしたかったのだと思います。

(この感想は、 今流通している版を基準に書いています)


                       

2017-06-10

info










Nous nous aimons en raison du plus ou du moins de ciel que contiennent nos âmes. 

Mais ne sois pas injuste,


私達は自分達の魂の中に天国をどれだけ含んでいるかによって、それに応じて愛するのです。
けれども、不公平であってはなりません。


 Honoré de Balzac――Séraphîta




2017-06-05

Let's take a break.










小休止


作品紹介じゃなくて申し訳ないのですけど、

ロベール・ブレッソン 監督シリーズも色々丁寧に見たい。
ドストエフスキー原作の作品ばかりで
女性の表情とか美しいなと思う。

紹介動画を見てると、この前アルコール度数20度
のカクテルを 舐めながら飲んだけど、
気持ちよかったことを思い出した。


私、お酒と併用したらいけない
薬を頓服で飲んでるから 中々お酒の
タイミングが分からないけど、
お酒でいつもより思考が停止したら祈りの言葉が出て来た。

そんな自分に少し安心する。

無意識なのか、
そんなところにまで浸透してるのが 嬉しかった。






















2017-06-03

桜桃








・子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少なくとも、私の家庭においては、そうである。

・私は疲労によろめき、お金のこと、道徳のこと、自殺のことを考える。

・私は悲しいときに、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。

・人はそれに気づかず、太宰という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけの読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。

・しかし、父は大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べて種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供より親が大事。
桜桃―太宰治。(1948年5月)


****

◎はじめに

われ、山にむかいて、目を挙ぐ。(文語訳)

(目を挙げて、私は山々を仰ぐ・新共同語訳)
詩篇、第121

 旧約聖書の詩篇の引用から始まる。この続きは「わが扶助(助け)はいずこよりきたるや」と続く。(文語訳)意味は、「わたしは山に向かって目をあげる、わが助けは、どこから来るであろうか」(角川春樹事務所文庫より)


「子供より親が大事、と思いたい」と始まることによって、何て薄情な親なんだと思うか、共感を生むのか、もっと他の意味があると読むのか、様々な読者の「立場」をひきつける。桜桃は短い作品で、この中の父親の名前が著者である「太宰」となっていること、長男の障がいのあること等の一致、妻子を置いて、愛人と心中事件を起こす約一月前に書かれた『桜桃』は私小説扱いでもある。この父親である「私」(太宰)は人を楽しませることや、人の期待に応えようと自分を追い込んでいく。死にたいと思うこと、長男の障がいについて父親は一緒に死にたいと思うことがあると独白で語る。そして贅沢なものでもある桜桃(サクランボ)を子どもに与えず、自分だけがまずそうに食べては種を吐く。




2017-05-28

L’amour est un signe de notre misère.





L’amour est un signe de notre misère. 
Dieu ne peut aimer que soi. Nous ne pouvons aimer qu’autre chose.

「愛は、わたしたちの悲惨のしるしである。神は、自分をしか愛することができない。
わたしたちは、他のものをしか愛することができない」
  シモーヌ・ヴェイユ(重力と恩寵)-(愛の章) 


*命題+根拠1+根拠2、極めてシンプルな内容だが、はっきりと意味を説明出来る人は恐らくあまりいないだろう。前後の文脈無し、これが断章のまとめである「重力と恩寵」の一文である。フランス語でも同様、特に大きなヒントとなるようなものはなかった。ただ、他の節やヴェイユの愛の価値観、彼女の人生、イエスへの愛の価値観等を見れば薄っすら見えてくるのかもしれない。 


忘れてはならないのは、彼女は哲学者ということである。既に「問い」が始まっていると思って良い。但し、「神は、自分をしか愛せない」とは神への疑問・反発でもない。何故なら、このタイトル自体が「重力と恩寵」であり、重力とは引力(二つの物体の間に引き合う力のこと)のみが確認されていて、排斥(二つの物体が反発しあうこと)としての力は確認されていないのだ。彼女の中の価値観として神と人間、神と哲学の排斥は無いと考えて良い。彼女は洗礼は拒んだが、こういった繋がりは否定していないように思える。


2017-05-25

hate













「持論」
アドラーの心理学を元にして考えると、根本的なトラウマみたいなものは治せないし、癒えることもない。 例えば 「恋人が死んだ」とかそういうものは 神の力とか信じても癒せないという私の持論がある。信じて癒えるというのは、何らかしら神からの跳ね返り、若しくは自身の覚知があるということで、傷が深い分、そこまで大きな奇跡は起きにくい。可能性として0ではないけれども、そんな奇跡を待つ人生はきっと疲れる。


そういうコアな弱みに限って他人もケア出来ないし、人もそこまで答えられない。これは根本的に治せない原因(トラウマ)だ。そこを無理してマインドコントロールした話にロクなものはない。


でも、 そのトラウマが原因で起こる行動や感情は 考え方次第で前に行ける。例えば、昔の恋人が死んだから、新しい人を愛せないとか、恋愛する気がおきないんだとか。 この領域からは信仰も生きるかもしれないとは思うし、人助けもあるかもしれない。試行錯誤や、内観、計画、それぞれの力で切り開けると思う。 切り開こうとすることには、時々神は応えることもあるし、人間の手による音楽療法だとかカウンセリングも、トラウマの根本原因ではなく、この「目的」エリアのアドバイスをするわけだから私は満更間違ってない。


2017-05-20

El mar del tiempo perdido
















「バラの香りがしたろう」とトビーアスは続けた。
「グアカマヤルの水死体と同じ匂いだったよ」
「いい香がしたんなら、きっと海のじゃないわね」
「どうせ死ぬのなら身分のある人のように土の下で埋めてもらいたい」


García Márquez ガルシア・マルケス(1982年・ノーベル文学賞受賞)
El mar del tiempo perdido(失われた時の海)コロンビア出身・スペイン語。

紹介

手法はマジックレアリズム。それは現実では起こりえないことも現実というもの。
例えばこの話にある「海からバラの香りがする」という表現も、この物語では現実です。マルケス自身は祖国コロンビアではなく、ヨーロッパに移住して書いたそうです。
「失われた時の海」とは、固すぎる土のせいで、この土地は死体を土に埋めることが出来ないので海に流す習慣があります。

そんな土地の海が三月となると、薔薇の香りがし始めます。その香りについて人々は神のお告げだと言いますし、それは嘘だとも言います。そんな中で、しまうところもない大金に困っているという男、教会建設のためにお金の相談をしにくる司祭(神父)がやってきます。この何とも筋がつかみにくい流れが「現実」というわけです。
「日毎(ひごと)に波が穏やかになり、燐光を放ちはじめた。三月になると、夜はバラの芳香が漂ってくるようになった」とありますが、
 海の燐光とは、夜の月のことでしょう。

その証拠にこの燐光の影響で星を数えるのに苦労するとあります。





2017-05-17

駆け込み訴へ(太宰治)








銀貨30枚を落とすユダ





イエス:「わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」

ユダ:いいえ、私は天の父にわかって戴(いただか)かなくても、また世間の者に知らされてなくても、ただあなたお一人さえ、おわかりになって下さったら、それでもう、よいのです。

イエス: 禍害(ワザワイ)なるかな、僞善なる學者(ガクシャ)、パリサイ(ファリサイ)人よ、汝らは 酒杯と皿との外を潔くす、されど内は貪慾と放縱(ほうじゅう) とにて滿つる(みつる)なり。(マタイの福音書23章25節)

ユダ:「おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀、なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! 

いいえ、ごめんなさい、
いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。金銭ゆえに、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されて来たのだっけ。いただきましょう。


私は所詮、商人だ。いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ(略)
はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ」


駆け込み訴へ(訴え)( 1940年 )―――太宰治 
(誰の台詞か分かるように人物名を入れました)


はじめに


「駆け込み訴へ」はイエスという名前は一度も出てこない。全編を要約すると、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は酷い。酷い。はい。厭な奴なのです」誰か分からない語り手から話は始まります。ペトロやヤコブへの悪口、文語訳の聖書の引用によって、読者は次第にこの語り手がユダではないか、あの人とはイエスではないかと思うようになります。そうして、有名な銀貨30枚を受け取るシーンとなる最後に語り手が「私の名は・・・・・・イスカリオテのユダ」だと名乗ることによって彼が愛して憎んだ「あの人」とはイエスだと確定する。
この作品は太宰の口述を妻が書き取ったものである。妻の証言によると太宰はこれを語る際、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言いなおしもなかったという。(推敲の末)妻はこのことについて、「畏れを感じた」そうだ。
それはまるで ユダに成りすましたと言えるのかもしれない。



2017-05-16

Anne with an E









「我が人生は夢の墓場」
「感動には大げさな言葉が合う」




不幸を感じないことが

幸せとは限らない。



祈りの言葉を覚える前のアンの想像癖を見てるとそう思う。
次第に彼女が持っている想像力が 本当の意味で生きていくところが良い。

赤毛のアン、アン・シャーリーは 生まれたすぐに孤児になり、小間使いとして転々とし、ずっと不運だった。自分は不運だということを感じなくなる程、彼女の心は想像の世界や、心のお喋りでいっぱいになる。そんなアンがマリラとマシュー兄弟に養ってもらうようになってから、人生を切り開いていく。



「我が人生は夢の墓場」

これは原作の赤毛のアンの

"My life is a perfect graveyard of buried hope"
That's a sentence I read in a book once,
And I say it over comfort myself whenever 
I'm disappointed in anything.

我が人生は夢の墓場、一度だけ本で読んだことがあるの。 絶望したとき、この言葉を慰めにしているの。

と言うと、育ての親になるマリラは何でそんな言葉が慰めになるのか
分からないと答える。



2017-04-20

Ranpo Edogawa(3) the Caterpillar

 


「今いきますよ。おなかがすいたでしょう」

「そんなに癇癪起こすもんじゃないわ、何ですのよ。これ?」  

「また妬いているのね。そうじゃない。そうじゃない」


江戸川乱歩・芋虫(1929年発表)―――時子


Ⅰ(感想)

  時子の夫「須永中尉」は、陸軍の誇りだと称えられ、軍神のような存在だったが、戦争によって四肢を失ってしまう。夫は顔は傷だらけで、聴力、声帯も失い上手く話せないが、内臓は鈍いながらも動き、男性としても機能する。姿形は「芋虫」と言えるが、芋虫とは幼虫の段階のことであり、性別の判断はほぼ不可能である。話せもしない、男らしさのカケラも感じない、そんな夫への妻の心は、夫でもなく、男性というものでもなく、自分の快楽と鬱憤晴らしや、気持ち悪い存在でしかなくなってしまう。

この作品を書いた江戸川乱歩の妻でさえこの作品は「いやらしい」と批判した。


 この話はまるで一筆書きのように流麗で、伏線という計算を感じさせない。これは単なる奇談だったが現代ではこういった事をQOLの低下と位置づけるのかもしれない。但し、この場合は夫ではなく、妻のメンタルケアに重点が置かれることになると私は思う。妻は情欲の果てに夫の眼を潰してしまうが、この残酷のように思える妻の行動も現代となれば、介護疲れとして妻の立場に立ったケアを重視されるのかもしれない。文学と医療倫理の相性は良いと聞く。 一見、無秩序であるような残酷さは、小説の形態となると共にある種の法則のように整えられる。このように意味のある残酷は人々に何か課題のように見せることがあるのだろう。


 この話は四肢のない状態の人間に対して差別的に思われるような話だが、第三者視点が妻の内観に焦点を当てることによって、身体に問題の無い人間の心に問題があるようにし、アンビバレンスを保っている。


 物語序盤、時子は「茄子の鴫焼き」を一番嫌いだとあった。鴫焼きとは精進料理であり、一説によると肉が食べられない僧侶が歯ごたえや味を鴫に似せるために作られたらしい。この紹介の始まり、今から情欲について展開される予兆として、時子がこの茄子をぐにゃりと噛む食感は色んなことを暗示させるだろう。苦手なものを口にするときというのは舌から全身へと嫌悪感が走る。感触、触感から得られる快楽に拘った乱歩ならではな所も見られる。


 第三者視点によって焦点が当てられるのは主に妻の内観だが、夫婦のフラストレーションの長期化、それによる両者のコンクリフト(葛藤)、愛着の対象が攻撃となること、アンビバレンス。妻の取った行動は、現代にとっては心理学の教科書のようであり、彼等の家はまるで心理学者の観察部屋のようだった。