2017-07-21

La porte étroite (狭き門)








「貴方は思い違いをしているのよ、わたしね、そんなに幸福になる必要がないの。今のままの二人で、充分な幸福でしょう?」

La Porte étroite:André Paul Guillaume Gide


●粗筋

  ジェロームは12にも満たない幼い頃に父親を失い、叔父のもとで過ごす。その家に住んでいる従弟のアリサはジェロームよりも二つ年上で、妹のジュリエットは一つ下だった。アリサの母親はたいそうな美人で、この二人の姉妹は母親のようにそれぞれ魅力があったがジェロームはアリサの麗しさに惹かれていた。父親が死んだ二年後にジェロームはアリサに会いに不意に会いたいと思ったので、アリサの母親の部屋を通る。その扉は開いたままだったが、アリサの母が軍服を着た見知らぬ若者に媚態を示しているところを見てしまう。ジェロームがアリサの部屋に入ると、アリサはそのことを知っていて泣いていた。やがてアリサの母は家出する。



2017-07-19

アンケートのお願い







 通っている教会で知り合った方からアンケートを頼まれましたので、ご協力をお願いします。20の質問で世論については普天間飛行場や憲法改正についてです。







依頼・製作:Juan Luis López Aranguren
大阪大学 研究員
Osaka University resarcher.


2017-07-01

vision

(vision)
The wing veins are for the butterfly, its organ, nerves and also its bones. 
When drawing a butterfly, its wing veins must be drawn with precision, otherwise,
 it will only represent a butterfly unable to fly. 
Belief and philosophy are for me like wing veins. 
Creation is for me all about soaring.


Soaring is freedom predetermined by wing veins. 
There cannot be any other freedom.

*******  
蝶にとって翅脈とは器官や神経であり、骨である。蝶を描くとしたら翅脈は、正確に描かなければ飛べない蝶になってしまう。私にとって、信仰や哲学というものは翅脈である。私にとっての創作とは、飛翔によって成り立っている。
飛翔とは翅脈有き自由であって、それ以外の自由は在り得ない。 

--------
 飛翔と翅脈の組み合わせによって生まれるものと矛盾、この命題は蝶のように飛ぶ場所は決められないということ。私達、文学者はそうなのではないか。 

*7年前から決まっていたvisionを手直ししました。





オオルリアゲハの標本。角度によって青からグリーンにかわります。

2017-06-27

ポーの一族(萩尾望都)










●兄さん わたしたちは いつまでも 子どもでいられるの
だから いつまでも はるかな国の 花や小鳥の夢をみていていいのね

●あの子はどこ? 思い起こすだけで 幸せにはなれない。

● そら あなたは また笑う。 
ポーの一族・(はるかな国の花や小鳥の章)




エルゼリとエドガー



2017-06-19

銀河鉄道の夜





主人公ジョバンニは家が貧しくて孤独を感じていました。同乗していた同級生カンパネルラは裕福でしたが、作品の終盤で実は川に流されて見つからないということをジョバンニは知ります。カムパネルラは恐らく死んでしまったのだということになりますが、その死は読者に最後まで謎を残します。

それでもジョバンニは生きる意味を見出して家に帰ります。 この列車の旅は幸福を探す旅であり、生と死に特等席のような違いがありません。違うのは切符です。

この作品の著者・宮沢賢治は何度もこの作品は書き直していますし、出版される前に死んでしまいます。身体が弱く、仕事が上手くいかなかった彼は、自分自身への問いと同時に、人々に寓意や幸せを与える童話作家として「本当の幸せとは何か」ということを模索したのではないのでしょうか。


残された遺族や団体が更に推敲を重ねましたが、初稿が出版されたり、後になって賢治が訂正した(博士が居ないバージョン)版が出たりとしてるので、銀河鉄道の夜は、どの版のを読んだのかによって、話も印象がそれぞれ違ったりしてるようです。

私はこの話は、呼びかけのようなアナウンスの後に、気がついたら列車の中に居たというような目覚めの感覚が好きです。目を見開いたら窓の外に宇宙が広がってるというのは素敵ですね。

天の河、ケンタウルスの祭り、銀河ステーション、カムパネルラが持っていた黒曜石の黒板、白鳥区の北十字、南十字、蠍の火、 カムパネルラはいつ自分は死んだと気付いたのか、カムパネルラにとっては死の目覚めはいつだったのか、私は職業柄のせいかそんなことを考えるようになりました。


ずっとこの話の視点はジョバンニでしたが、カムパネルラはジョバンニが列車の中で目覚める前から目覚めているのか、ジョバンニの意識の目覚めと共に彼等は現れたのか、どちらなのか、そういうことが過ぎります。


カムパネルラはジョバンニとずっと一緒にいると約束をしたけれども、カムパネルラは石炭袋のところで消えてしまいます。私はそれでも約束が破られたとは思っていません。二人はきっとこの銀河の中で魂の繋がりを約束したということになるのです。

死者と生者が限りなく平等に近い星々の旅で。

「本当の幸せ」と「天国」は、生きている人にとっては似てるのかもしれません。追えば何処までも果てしなく続いていて、降りる駅を決めればとりあえず、そこに少しとどまるのではないのでしょうか。
あと、私は宮沢賢治が、人生の道しるべである老賢者(ユング)のようなブルカニロ博士を途中で消した理由を考えていました。


恐らく、賢者を失うことで生者だけが特別なことを知るわけでもなく、死者だけが特別なものが見れるわけでもなく、ジョバンニとカムパネルラは離れた後も、同じように彷徨いながらまだ旅の途中だ・・・・・・ということにしたかったのだと思います。

(この感想は、 今流通している版を基準に書いています)


                       

2017-06-10

info










Nous nous aimons en raison du plus ou du moins de ciel que contiennent nos âmes. 

Mais ne sois pas injuste,


私達は自分達の魂の中に天国をどれだけ含んでいるかによって、それに応じて愛するのです。
けれども、不公平であってはなりません。


 Honoré de Balzac――Séraphîta




2017-06-05

Let's take a break.










小休止


作品紹介じゃなくて申し訳ないのですけど、

ロベール・ブレッソン 監督シリーズも色々丁寧に見たい。
ドストエフスキー原作の作品ばかりで
女性の表情とか美しいなと思う。

紹介動画を見てると、この前アルコール度数20度
のカクテルを 舐めながら飲んだけど、
気持ちよかったことを思い出した。


私、お酒と併用したらいけない
薬を頓服で飲んでるから 中々お酒の
タイミングが分からないけど、
お酒でいつもより思考が停止したら祈りの言葉が出て来た。

そんな自分に少し安心する。

無意識なのか、
そんなところにまで浸透してるのが 嬉しかった。






















2017-06-03

桜桃








・子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少なくとも、私の家庭においては、そうである。

・私は疲労によろめき、お金のこと、道徳のこと、自殺のことを考える。

・私は悲しいときに、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。

・人はそれに気づかず、太宰という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけの読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。

・しかし、父は大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べて種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供より親が大事。
桜桃―太宰治。(1948年5月)


****

◎はじめに

われ、山にむかいて、目を挙ぐ。(文語訳)

(目を挙げて、私は山々を仰ぐ・新共同語訳)
詩篇、第121

 旧約聖書の詩篇の引用から始まる。この続きは「わが扶助(助け)はいずこよりきたるや」と続く。(文語訳)意味は、「わたしは山に向かって目をあげる、わが助けは、どこから来るであろうか」(角川春樹事務所文庫より)


「子供より親が大事、と思いたい」と始まることによって、何て薄情な親なんだと思うか、共感を生むのか、もっと他の意味があると読むのか、様々な読者の「立場」をひきつける。桜桃は短い作品で、この中の父親の名前が著者である「太宰」となっていること、長男の障がいのあること等の一致、妻子を置いて、愛人と心中事件を起こす約一月前に書かれた『桜桃』は私小説扱いでもある。この父親である「私」(太宰)は人を楽しませることや、人の期待に応えようと自分を追い込んでいく。死にたいと思うこと、長男の障がいについて父親は一緒に死にたいと思うことがあると独白で語る。そして贅沢なものでもある桜桃(サクランボ)を子どもに与えず、自分だけがまずそうに食べては種を吐く。




2017-05-28

L’amour est un signe de notre misère.





L’amour est un signe de notre misère. 
Dieu ne peut aimer que soi. Nous ne pouvons aimer qu’autre chose.

「愛は、わたしたちの悲惨のしるしである。神は、自分をしか愛することができない。
わたしたちは、他のものをしか愛することができない」
  シモーヌ・ヴェイユ(重力と恩寵)-(愛の章) 


*命題+根拠1+根拠2、極めてシンプルな内容だが、はっきりと意味を説明出来る人は恐らくあまりいないだろう。前後の文脈無し、これが断章のまとめである「重力と恩寵」の一文である。フランス語でも同様、特に大きなヒントとなるようなものはなかった。ただ、他の節やヴェイユの愛の価値観、彼女の人生、イエスへの愛の価値観等を見れば薄っすら見えてくるのかもしれない。 


忘れてはならないのは、彼女は哲学者ということである。既に「問い」が始まっていると思って良い。但し、「神は、自分をしか愛せない」とは神への疑問・反発でもない。何故なら、このタイトル自体が「重力と恩寵」であり、重力とは引力(二つの物体の間に引き合う力のこと)のみが確認されていて、排斥(二つの物体が反発しあうこと)としての力は確認されていないのだ。彼女の中の価値観として神と人間、神と哲学の排斥は無いと考えて良い。彼女は洗礼は拒んだが、こういった繋がりは否定していないように思える。


2017-05-25

hate













「持論」
アドラーの心理学を元にして考えると、根本的なトラウマみたいなものは治せないし、癒えることもない。 例えば 「恋人が死んだ」とかそういうものは 神の力とか信じても癒せないという私の持論がある。信じて癒えるというのは、何らかしら神からの跳ね返り、若しくは自身の覚知があるということで、傷が深い分、そこまで大きな奇跡は起きにくい。可能性として0ではないけれども、そんな奇跡を待つ人生はきっと疲れる。


そういうコアな弱みに限って他人もケア出来ないし、人もそこまで答えられない。これは根本的に治せない原因(トラウマ)だ。そこを無理してマインドコントロールした話にロクなものはない。


でも、 そのトラウマが原因で起こる行動や感情は 考え方次第で前に行ける。例えば、昔の恋人が死んだから、新しい人を愛せないとか、恋愛する気がおきないんだとか。 この領域からは信仰も生きるかもしれないとは思うし、人助けもあるかもしれない。試行錯誤や、内観、計画、それぞれの力で切り開けると思う。 切り開こうとすることには、時々神は応えることもあるし、人間の手による音楽療法だとかカウンセリングも、トラウマの根本原因ではなく、この「目的」エリアのアドバイスをするわけだから私は満更間違ってない。


2017-05-20

El mar del tiempo perdido
















「バラの香りがしたろう」とトビーアスは続けた。
「グアカマヤルの水死体と同じ匂いだったよ」
「いい香がしたんなら、きっと海のじゃないわね」
「どうせ死ぬのなら身分のある人のように土の下で埋めてもらいたい」


García Márquez ガルシア・マルケス(1982年・ノーベル文学賞受賞)
El mar del tiempo perdido(失われた時の海)コロンビア出身・スペイン語。

紹介

手法はマジックレアリズム。それは現実では起こりえないことも現実というもの。
例えばこの話にある「海からバラの香りがする」という表現も、この物語では現実です。マルケス自身は祖国コロンビアではなく、ヨーロッパに移住して書いたそうです。
「失われた時の海」とは、固すぎる土のせいで、この土地は死体を土に埋めることが出来ないので海に流す習慣があります。

そんな土地の海が三月となると、薔薇の香りがし始めます。その香りについて人々は神のお告げだと言いますし、それは嘘だとも言います。そんな中で、しまうところもない大金に困っているという男、教会建設のためにお金の相談をしにくる司祭(神父)がやってきます。この何とも筋がつかみにくい流れが「現実」というわけです。
「日毎(ひごと)に波が穏やかになり、燐光を放ちはじめた。三月になると、夜はバラの芳香が漂ってくるようになった」とありますが、
 海の燐光とは、夜の月のことでしょう。

その証拠にこの燐光の影響で星を数えるのに苦労するとあります。





2017-05-17

駆け込み訴へ(太宰治)








銀貨30枚を落とすユダ





イエス:「わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」

ユダ:いいえ、私は天の父にわかって戴(いただか)かなくても、また世間の者に知らされてなくても、ただあなたお一人さえ、おわかりになって下さったら、それでもう、よいのです。

イエス: 禍害(ワザワイ)なるかな、僞善なる學者(ガクシャ)、パリサイ(ファリサイ)人よ、汝らは 酒杯と皿との外を潔くす、されど内は貪慾と放縱(ほうじゅう) とにて滿つる(みつる)なり。(マタイの福音書23章25節)

ユダ:「おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀、なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! 

いいえ、ごめんなさい、
いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。金銭ゆえに、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されて来たのだっけ。いただきましょう。


私は所詮、商人だ。いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ(略)
はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ」


駆け込み訴へ(訴え)( 1940年 )―――太宰治 
(誰の台詞か分かるように人物名を入れました)


はじめに


「駆け込み訴へ」はイエスという名前は一度も出てこない。全編を要約すると、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は酷い。酷い。はい。厭な奴なのです」誰か分からない語り手から話は始まります。ペトロやヤコブへの悪口、文語訳の聖書の引用によって、読者は次第にこの語り手がユダではないか、あの人とはイエスではないかと思うようになります。そうして、有名な銀貨30枚を受け取るシーンとなる最後に語り手が「私の名は・・・・・・イスカリオテのユダ」だと名乗ることによって彼が愛して憎んだ「あの人」とはイエスだと確定する。
この作品は太宰の口述を妻が書き取ったものである。妻の証言によると太宰はこれを語る際、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言いなおしもなかったという。(推敲の末)妻はこのことについて、「畏れを感じた」そうだ。
それはまるで ユダに成りすましたと言えるのかもしれない。



2017-05-16

Anne with an E









「我が人生は夢の墓場」
「感動には大げさな言葉が合う」




不幸を感じないことが

幸せとは限らない。



祈りの言葉を覚える前のアンの想像癖を見てるとそう思う。
次第に彼女が持っている想像力が 本当の意味で生きていくところが良い。

赤毛のアン、アン・シャーリーは 生まれたすぐに孤児になり、小間使いとして転々とし、ずっと不運だった。自分は不運だということを感じなくなる程、彼女の心は想像の世界や、心のお喋りでいっぱいになる。そんなアンがマリラとマシュー兄弟に養ってもらうようになってから、人生を切り開いていく。



「我が人生は夢の墓場」

これは原作の赤毛のアンの

"My life is a perfect graveyard of buried hope"
That's a sentence I read in a book once,
And I say it over comfort myself whenever 
I'm disappointed in anything.

我が人生は夢の墓場、一度だけ本で読んだことがあるの。 絶望したとき、この言葉を慰めにしているの。

と言うと、育ての親になるマリラは何でそんな言葉が慰めになるのか
分からないと答える。



2017-04-20

Ranpo Edogawa(3) the Caterpillar

 


「今いきますよ。おなかがすいたでしょう」

「そんなに癇癪起こすもんじゃないわ、何ですのよ。これ?」  

「また妬いているのね。そうじゃない。そうじゃない」


江戸川乱歩・芋虫(1929年発表)―――時子


Ⅰ(感想)

  時子の夫「須永中尉」は、陸軍の誇りだと称えられ、軍神のような存在だったが、戦争によって四肢を失ってしまう。夫は顔は傷だらけで、聴力、声帯も失い上手く話せないが、内臓は鈍いながらも動き、男性としても機能する。姿形は「芋虫」と言えるが、芋虫とは幼虫の段階のことであり、性別の判断はほぼ不可能である。話せもしない、男らしさのカケラも感じない、そんな夫への妻の心は、夫でもなく、男性というものでもなく、自分の快楽と鬱憤晴らしや、気持ち悪い存在でしかなくなってしまう。

この作品を書いた江戸川乱歩の妻でさえこの作品は「いやらしい」と批判した。


 この話はまるで一筆書きのように流麗で、伏線という計算を感じさせない。これは単なる奇談だったが現代ではこういった事をQOLの低下と位置づけるのかもしれない。但し、この場合は夫ではなく、妻のメンタルケアに重点が置かれることになると私は思う。妻は情欲の果てに夫の眼を潰してしまうが、この残酷のように思える妻の行動も現代となれば、介護疲れとして妻の立場に立ったケアを重視されるのかもしれない。文学と医療倫理の相性は良いと聞く。 一見、無秩序であるような残酷さは、小説の形態となると共にある種の法則のように整えられる。このように意味のある残酷は人々に何か課題のように見せることがあるのだろう。


 この話は四肢のない状態の人間に対して差別的に思われるような話だが、第三者視点が妻の内観に焦点を当てることによって、身体に問題の無い人間の心に問題があるようにし、アンビバレンスを保っている。


 物語序盤、時子は「茄子の鴫焼き」を一番嫌いだとあった。鴫焼きとは精進料理であり、一説によると肉が食べられない僧侶が歯ごたえや味を鴫に似せるために作られたらしい。この紹介の始まり、今から情欲について展開される予兆として、時子がこの茄子をぐにゃりと噛む食感は色んなことを暗示させるだろう。苦手なものを口にするときというのは舌から全身へと嫌悪感が走る。感触、触感から得られる快楽に拘った乱歩ならではな所も見られる。


 第三者視点によって焦点が当てられるのは主に妻の内観だが、夫婦のフラストレーションの長期化、それによる両者のコンクリフト(葛藤)、愛着の対象が攻撃となること、アンビバレンス。妻の取った行動は、現代にとっては心理学の教科書のようであり、彼等の家はまるで心理学者の観察部屋のようだった。




Ranpo Edogawa (2)






 何故 、ハサミかというと


時子の夫は 戦争によって四肢を失い、まるで
芋虫のようになってしまったが、
以前は軍神とも言える活躍ぶりだった。
それで、そのときの活躍の新聞の記事を切り抜く
時に使ったものとして、ハサミをイメージしました。
カッターナイフは日本では1950年代に
登場しているので、芋虫は時代設定的に
それよりも前なのでハサミかもしくは別の切れるものと
なるのかなと思い、私は ハサミにした。


知人はこのデザインを見て、 十字架に見立てたかと思ったと言ったので 中々察しが良いなと思った。 真相は教えませんが。


時子の夫は四肢を失った後、 自分の活躍していた頃の新聞や勲章を眺めていたが、
そのうち飽きてくる。この飽きて夫と妻は情欲だけの時間を過ごしていくのが それも次第に気怠くなっていき、2人はどんどん身体が重たくなっていく・・・・・・



では詳細と 続きはまた今度。


Ranpo Edogawa (1)





江戸川乱歩の芋虫をイメージして作ってみました。
三回ぐらい分けて更新します。








「お前さんの貞節は、あの廃人を三年の年月少しだって
厭(嫌)な顔を見せるではなく、自分の慾をすっかり捨ててしまって、親切に世話をしている。女房として当たり前のことだと云ってしまえばそれまでじゃが、出来ないことだ。わしは、全く感心していますよ。------------------------
--------------今の世の美談だと思っています。

だが、まだまだ先の長い話じゃ。
どうか気を変えないで面倒を見て上げて下さいよ」

江戸川乱歩 「芋虫」より。


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何も復活祭前後で「芋虫」の朗読の練習しなくてもという感じでしたけど、今年は違った春を過ごせて、色んな事を知れた気分です。次は「芋虫」について書きたいと思います。

****


今回は江戸川乱歩先生を想って作った(笑)デザイン画から先に。何パターンか色々作ったのですけど、とりあえず今回は4枚まで。



江戸川乱歩・谷崎潤一郎は日本語のほうが綺麗なのですよね。
英訳だと状況を説明しているだけに過ぎない表現になってしまってるところがある気がしますが、それは彼等が望んだ日本の美のような気がするのですけどね。
綺麗な分、日本語でデザイン画にするとグロテスク感、強迫観念が増すので、それがかえって耽美というものから離れてしまう気がしたので、(私の場合は)イメージ画像に使う文字は英語にしました。人によっては物足りないと思うかもしれませんが・・・・・・。
使ってる引用箇所は本題に入れば分かるかと思います。

私はRanpo Edogawa にしましたが、
Rampo Edogawaというのもありますね。

2017-04-15

Eve





・There certainly must be some who pray constantly for those who never pray at all.

・Certain thoughts are prayers. There are moments when, whatever the attitude of the body may be, the soul is on its knees.



復活祭前夜

Victor HugoのLes Misérablesの引用で申し訳ないですけれども、(メモが残ってて) これ以上の感想がありません。身体がどうであっても、私が何をしてきたのか それが何であろうと、魂が跪くような時間でした。

今の苦しみは最後では無い、私の知らない、見えないところでの痛みや悲しみも 癒されますように。復活祭おめでとうございます。

今日は 前夜祭(復活祭の)でした。

土曜日は、夜になるとバスの最終が過ぎるだけじゃなくてタクシーも出払ってしまうから 途中で帰りましたけど。



*ユゴーは無神論者ですが時々カトリック書籍でも引用されてます。

2017-04-10

The Mirror


















「鏡でも見るみたいに他人の生活を見てみるがよい」(テレンティウス・兄弟より)
難しい物語ほど、私に反芻されるデメアスの台詞。




  硝子が水に溶けて色が変色するように、タルコフスキーの「鏡」の記憶の世界は、彼の得意とする水の描写と共に変色しているようだ。鏡は溶けにくいように特殊な加工はされているが、湿気の多い場所や長らく水につけていると色がヤケ始める。廃墟のような部屋、脆い木材、天井が崩れていくこと、これらの映像は美しく磨かれた硝子とはかけ離れていくが、時間の流れにとって物質の衰えは自然なことであって、水によって老朽化を進まさせているとすれば、それはレーテー(忘却の河)を表しているようで、ミュトスとしても美しい。





Domine, quamdiu aspicies











In ipso [Deo] enim vivimus et movemur et sumus:
――我らは神の中に生き、動き、また在る。――
Acts 17:28(使徒言行録17:28)
****


 バルザックのセラフィタで引用されていた箇所で、
意図的だったのか誤りなのか定かではないのですが、バルザックはこの箇所をラテン語で順番を逆にしていたようです。


In Deo sumus movemur vivimus.
(我らは神の中に在り、動き、また生きる)
何か一つ、これについて詩のような簡潔な台詞を添えようと思ったのだけれども、これだけでも完成されたような美しさがあるので、受け入れるばかりで何も閃きませんでした。
もう少し何か経験を積んだら私の言葉として動くのかしら。

2017-03-28

Hamlet









by thy intents wicked or charitable.
thou com'st in such a questionable shape that I will speak to thee:

I'll call thee Hamlet, King,father,royal Dance. O O answer me.



Hamlet-act1 Scene4 

画像元→http://hamlet.barbican.org.uk/


*特にハムレットについて解説や感想はありません。


2017-02-21













・私の心のうちに神様や仏様祈って、結局運命がそんな工合(具合)になったのんを有難いことや思いました。ほんまに、あの晩のような出来事でもなかったら、なかなかこない綺麗さっぱりと切れる云う訳に行けしませんのに、これも「神様の思召し」やろ、口惜しいことも悲しいことも済んでしもうたことはみんな夢とあきらめよと(園子)


・「異性の人に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇りに感じる。何でや云うたら、男の人が女の姿見て綺麗思うのん当たり前や、女で女を迷わすことが出来る思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあ云う気いして、嬉してたまらん」 (光子)


谷崎潤一郎「卍」より 


****
 

朗読の感想

 ある役を演じてみるとするのなら、心理分析は欠かせない。私の課題は「光子」だった。甘え上手で人々を虜にする美しい光子、それは男性だけとは限らず、主人公「園子」とも関係を持つようになる。原作も映画も話し手や視点の中心は主人公・園子であり、この美しい光子という女性は園子の記憶の中の者となる。なので、心理分析するとすれば、台詞や所作等からの想定となる。

園子は美術学校に通っていて、観音様を描くが、校長先生にこの観音様はモデルに似ていない、誰に似せたんだと執拗に問われ、反論をする。園子は無自覚で徳光光子に似ている観音様を描いていたことに気づく。それを機に、会うようになる園子と光子・・・・・・。


2017-02-01

Toward a narrative



   


「この建築の表皮にしわだの、いぼだのをつくったのは、時のしわざだし」(第三章)


「こんなふうにして、いつも大聖堂の型にはめられて成長し、その中で生き、眠り、ほとんど外に出ず、四六時ちゅう建物の不思議な圧力を身に受けているうちに、とうとうガジモドは、少しずつ建物に似てきた」


「カタツムリが殻の形に体を合わせるように、彼は大聖堂に体をあわせたのだ。
(略)この建物は彼の住居であり、巣窟でもあり、外皮でもあった」
(第四章)



ヴィクトル・ユゴー著 
ノートル=ダム・ド・パリより。




*簡単な粗筋*

 主人公、カジモドは赤ん坊のとき捨てられ、当時まだ助祭長だったフロロに拾われる。月日を経てフロロは司教補佐へ、カジモドはノートルダム大聖堂の
鐘つき男となるが、音が聞こえないため鐘の音は聞こえない。彼の外見は醜く、人々からバカにされる存在で広場で晒し者にされるが、美しいジプシー娘のエスメラルダに助けられる――――。



醜いカジモドのことをユゴーは第4編でカタツムリの殻に例えた。


****



カタツムリの殻というものには以前話した「黄金比」(黄金螺旋)が隠れている。人類が発見した黄金比、新約聖書の神と共にある「言葉」(ヨハネによる福音書1章)というものはギリシャ語ではロゴスと言うが、「比」という意味もある。他にもアリストテレスは「命題」をロゴスと呼んでいたし、神の言葉に匹敵する比とは「黄金比」だと一部の数学者や神秘数字を愛する者からよく語られる。このカタツムリの殻とは「命題」でもあり、そして「黄金比」という答えでもある。








元々、ノートルダム大聖堂自体、建物の比率が長方形の黄金比となっている。設計自体も聖書の数字を彫刻等に散りばめられていて、荘厳なる大聖堂である。けれども、ユゴーは長方形の黄金比としてではなく、カタツムリのような地味な生物の殻に潜む黄金比を大聖堂に例えた。ガジモドの体をその渦巻き上の「黄金比」に押し込め、全ての歪さを上手く表現する。その歪さ中には障がいを持つ者、ジプシーへの根深い差別、そして神を外皮のようにしか扱えない者への冷静な視線が表れている。


大聖堂に捨てられていた赤ん坊のガジモドは20歳ぐらいになるが、外見は醜かった。最期は愛する同じジプシー女性の亡骸と共に白骨化するまで眠り続けて砕け散った。 眠りから死の境界線はいつ越えたのか、その「時」は読者には知らされない。憎悪と欲、ノートルダム大聖堂を取り囲む長い長い人間劇は「時」のつけた傷に過ぎず、最期の白骨化があまりにも切なく、この死に方が幻想と現実の区別をつかなくさせる。




2017-01-29

Seraphim









The beautiful unfamiliar words and prayers to God that you chant--those are words to God that are rarely chanted today.When a beautiful person like you narrates, I get blinded by the beauty. Am I a sinner?
聞きなれない美しい言葉、それは唱えることが減ってしまった神への言葉。貴女のような美しい人が語ると、人はその美しさに眩んでしまうのです。私は罪人でしょうか?
Seraphim(Chris Kyogetu)
*****
私は今、バルザックのセラフィタ(Serafita)という原作を元に脚本を書いています。セラフィムを調べてもらえれば、どれ程の位の天使なのか分かるかと思います。この話のセラフィムは人間の血に天使が混ざっていて、女には美男子に見え、男には美女に見えます。人間の男女がセラフィムの美しさに恋をして手に入れようとしますが、セラフィムは沢山の神秘を語り、最期は昇天します。男性に見えるセラフィトスは哲学的であり、女性に見えるセラフィタの台詞は旧約でいえば雅歌のようです。それが次第にセラフィムとして統一していくかのように、新約であり、「天国のような言葉」へとなっていくところも見所かと思います。
そのセラフィムは「たった一つの愛で心を満たす」話をします。その愛とは天国であり、神への愛です。
*****
牧師にはセラフィムのことが 少女にしか映らず、自分のことを天使と勘違いした可哀想な子と思われています。そんな牧師に「本当は貴方は神を信じていないのよ」とセラフィムが語るシーンがあるわけですが、それがより効果的になるように色々と駒の進め方を考えている段階ですね。また何か書くことがあったら紹介したいと思います。 このメモは不定期で更新するつもりです。 
(英訳紹介は少々内容を変えています)
*****
アガペーやエロース、フィリアー、もしくは翻訳出来ない「愛」についてのロマンと哲学の深さは見物だと思いますし、神への愛、人への愛を識別させ、これらが重なることによって最大のロマンが生まれると知った私の原点です。バルザック自身、これはイエスに見惚れる天使の像を見て思いついた話であり、当時、結ばれるはずもなかった公爵夫人のために書いています。(後に夫人の夫が亡くなり、バルザック達は結ばれます)
これも神秘の閃きと許されるはずの無い愛があってこそのものですので、難解とは言えども理解出来る部分はあるかと思います。
ただ、大枠は変えないとしてもほぼ登場人物が静止している状態で話し込んでいるシーンが多いのと、退屈と思われてしまう難解な箇所、台詞にしては長い箇所が多いので、意訳したり理解しやすいように大幅な変更はあります。ですので出すとしたら「セラフィム」となるかもしれません。勿論上の台詞も私のオリジナルですが、内容には添っています。
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元々、小休止のつもりで貰った提案です。
作品を書いていて面白いのは、役作りなのか自分が設定した世界の中で思考を働かせていると、その通りに現実も動いていくことです。 この前もこの話しをある人にしたらアガペーに関して、天国に関して閃きを貰いました。イマージュが「現実」として実現化していくこと、それはとても素晴らしい収穫でした。作品が無事完成するように祈っていてください。



(English ver)
I am writing now a script based on the original work called “Serafita”of Balzac. I think that you understand if I refer to Seraphim that it is the best angel's story. Seraphim of this story is mixed with angel and human ,it looks like a beautiful boy to a woman, and a beautiful woman to a man. A man and a woman of human being fall in love with the beauty of Seraphim and try to get her/him. However, Seraphim speaks so many mysteries as to wake up the two, and finally ascends to heaven. Seraphim says, "fill my heart with only one love.” That love is heaven and love for God. In order to write emotions impossible for humans, I feel the same way as playing that role. It may be so that I am playing this role unconsciously.
peace of lord.

from Chris