2017-04-20

Ranpo Edogawa(3) the Caterpillar

 


「今いきますよ。おなかがすいたでしょう」

「そんなに癇癪起こすもんじゃないわ、何ですのよ。これ?」  

「また妬いているのね。そうじゃない。そうじゃない」


江戸川乱歩・芋虫(1929年発表)―――時子


Ⅰ(感想)

  時子の夫「須永中尉」は、陸軍の誇りだと称えられ、軍神のような存在だったが、戦争によって四肢を失ってしまう。夫は顔は傷だらけで、聴力、声帯も失い上手く話せないが、内臓は鈍いながらも動き、男性としても機能する。姿形は「芋虫」と言えるが、芋虫とは幼虫の段階のことであり、性別の判断はほぼ不可能である。話せもしない、男らしさのカケラも感じない、そんな夫への妻の心は、夫でもなく、男性というものでもなく、自分の快楽と鬱憤晴らしや、気持ち悪い存在でしかなくなってしまう。

この作品を書いた江戸川乱歩の妻でさえこの作品は「いやらしい」と批判した。


 この話はまるで一筆書きのように流麗で、伏線という計算を感じさせない。これは単なる奇談だったが現代ではこういった事をQOLの低下と位置づけるのかもしれない。但し、この場合は夫ではなく、妻のメンタルケアに重点が置かれることになると私は思う。妻は情欲の果てに夫の眼を潰してしまうが、この残酷のように思える妻の行動も現代となれば、介護疲れとして妻の立場に立ったケアを重視されるのかもしれない。文学と医療倫理の相性は良いと聞く。 一見、無秩序であるような残酷さは、小説の形態となると共にある種の法則のように整えられる。このように意味のある残酷は人々に何か課題のように見せることがあるのだろう。


 この話は四肢のない状態の人間に対して差別的に思われるような話だが、第三者視点が妻の内観に焦点を当てることによって、身体に問題の無い人間の心に問題があるようにし、アンビバレンスを保っている。


 物語序盤、時子は「茄子の鴫焼き」を一番嫌いだとあった。鴫焼きとは精進料理であり、一説によると肉が食べられない僧侶が歯ごたえや味を鴫に似せるために作られたらしい。この紹介の始まり、今から情欲について展開される予兆として、時子がこの茄子をぐにゃりと噛む食感は色んなことを暗示させるだろう。苦手なものを口にするときというのは舌から全身へと嫌悪感が走る。感触、触感から得られる快楽に拘った乱歩ならではな所も見られる。


 第三者視点によって焦点が当てられるのは主に妻の内観だが、夫婦のフラストレーションの長期化、それによる両者のコンクリフト(葛藤)、愛着の対象が攻撃となること、アンビバレンス。妻の取った行動は、現代にとっては心理学の教科書のようであり、彼等の家はまるで心理学者の観察部屋のようだった。










Ⅱ(物語の説明) 

四肢を失った夫は、意思を表すのに這いずり回るか自分の頭を床にぶつけるしかなかった。何度も何度もぶつけて不満を表し、その度に妻は丁寧に対応する。

「今、行きますよ。おなかがすいたでしょう」
「待ち遠しかったでしょう。すまなかったわね」
「今、ランプをつけますからね。もう少しよ、もう少しよ」


妻は夫に紙と鉛筆を渡すと夫は口に加えて不満を書いて言葉にした。


「オレガ イヤニナッタノカ」(俺が嫌になったのか?) 



妻は頭を床にぶつけてまで自分を求め、姿同様の歪んだ字を書く夫に、
「また妬いているのね」と、あやす。それから自分の接吻一つで安堵をし、一挙一動するものだから、妻にとって それがまた興奮の種となり情欲が湧いてしまう。
妻にとってこの「生態」は興奮する玩具だった。


「あの廃人を三年の年月少しだって厭な顔を見せるではなく、
自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話している。
女房として当たり前のことだと云ってしまえばそれまでじゃが、
出来ないことだ。わしは、全く感心していますよ。今の世の美談だと思っています」


「どうか気を変えないで面倒見てあげてくださいよ」


 外の人間は、この妻は欲を捨てて夫に尽くしていると思っていて、今の世の美談として、この夫婦に理想すら抱いている。この場合の「欲」を捨ててというのは、世間がこの夫が妻を女として満足させられないと思い込んでいたのだろう。その上に貞淑、献身的に夫の世話をしていることを望んでいる。しかし、実際は少し違っていた。夫は男性として機能が残っていたし、妻は夫をのことを、肥えた黄色い芋虫であり、奇形な肉独楽のように見ていた。

外に行けば時子は 貞淑な妻として、外の空気に合わせる。それは外面だけだとか、悪意や自分から逃げているだけだとは言い難いだろう。


自分を取り巻く世界というのは、馴染みがある世界だ。特に遠出でもしない限りそうだろう。時子を取り巻く人は 時子に対して何らかしらのイメージを持って既に存在している。「知られている」というのは特にそうだろう。

   それをわざわざ崩してまで時子が何を明かさなければならなかったと言うのだろうか?
人は中々、この馴染みがある世界、自分の印象を崩すことは出来ない。それに情欲というものはずっと続くものではない。外に行けば彼女も自然に外に合わせる。
嘘をつくわけでもなく、玄関から外へと出れば時子は貞節な妻として、婉然と微笑んだのだろう。そして家に戻れば、夫の姿の醜さや、その醜さに欲情することを、妻は自分の心が純愛でないことや、秩序立てられない自分の感情に嫌気を差し、自分の情欲、快感と共に恐れも持ち始める。


  客観的に見れば、どんな姿になっても夫に尽くすという誉められるべき姿もあるが、自分の内面、夫が哀れで醜いから欲情するというものが時子に せめぎあう。


  夫も以前は自分の活躍していた頃の新聞記事や勲章を見ていたが、飽きてしまう。夫と行為にあけくれること、この感覚が動物の檻の中の出来事のようで、虚無感があった。そんな中で、自分が貞節の美名に隠れて、恐ろしい女だと見透かされるのではないかと、馴染みがある世界から、指を突き刺されて責められているのではないかと強迫観念に駆られる。実のところ、追い詰めるのは自分を責める時子自身、ただ一人だったが、その解消が色欲と怒りでしかなくなってしまった。それなのに、夫は嘗てのような凛々しさがなく、自分の言いなりだ。けれども言いなりのようで、動けない彼は自分が少し居ないぐらいで呼んでは、結局のところ自分を束縛する。時子の膨らむ感情、時子が夫へと跨るときに内観の描写はここで一旦、静止する。人間は愛おしいという以外の感情が爆発するというのはどんな感情かは表せられないのだろう。



言葉にならない感情、
内観からもフェードアウトした
ような感情、


弱々しい彼への支配力や感情が収拾つかなくなり、時子は夫の眼に手をかけ自分を見つめる夫の眼を潰してしまう。


「ユルシテ」



 目を潰された夫の胸に妻・時子は「ユルシテ」(Forgive me)と何度か身体に書いたが夫は返事をする素振りは見せなかった。妻は段々と夫の置かれている状況の哀れさと、自分の罪への意識に耐えかねられなくなり夫から思わず離れてしまう。そして、戻ってみると夫は居なくなっていて枕元の柱に子どもの悪戯書きのように読みにくい文字を残してあるのを見つける。

妻はそれを「ユルス」と記してあると気づいたが、時既に遅し・・・・・・。夫は身体を這いずり、もたげていた鎌首をガクンと落とし、井戸の中へと落ちて死んでいった。

鎌首をもたげるとは、蛇が首を持ち上げた姿が鎌に似ていることから、戦闘体制に入るときに使う比喩表現である。夫の最期は、軍人としての
死なのか、死に向かうことへの意志の表れなのか、謎は残るが、妻は夫から許されたと確信と共に夫の面影の幻想を思い描いた。


Ⅰ(思索と所感) 

○「ユルシテ」 と改心について。
 時子は夫の眼を潰してしまった後に、夫の胸に「ユルシテ」と指で何度も書いた。 このときの「ユルシテ」について人々はどう捉えるのだろう。乱歩は、これまで妻の内観と共に闇へ闇へ、快楽、恐怖と大抵の読者がそう捉えるように描写を続けていたが、妻がユルシを乞うところから妻の本質の方向性を拡散させている。読者によっては妻が改心をして「ユルシテ」と言っているようにも見えるし、改心なんてしてなくて自分が許されたいがために「ユルシテ」と言っているだけのようにも見せている。


「彼は物を見ることが出来ない。音が聞くことが出来ない。一言も口が利けない。
----------果てしなき暗闇である-----------どんな薄明かりでも構わぬ、物の姿を見たいであろう。
どんな幽かな音でも構わぬ、物の響きを聞き度い(聞きたい)であろう」


 確かに夫の立場に立ったような感情も湧いているが、それと同時に時子は泣き出し、世の常の姿を備えた人間が見たくなり、哀れな夫を置き去りにする。一人に耐え兼ねて逃げ出すその姿を卑怯だと思う人もいるだろう。読者という「審判」が時子をどのような女と見るかによって後半の感じ取り方は変わってしまう。


 日本語の「ユルス」とは、基本は人同士の「許す」と神との間の「赦し」と分かれている。この場合、「許す」というのが適切である。けれども、目も見えない、四肢も無い、
そんな夫に残されているのは、他者には感じているかどうか分からない触感だけである。
日本人なら子どもの頃に、友人同士で背中に文字を指で書いて何て書いてあったのか当てるゲームを一度はしたことがあるだろう。受け取り側は、文字が鏡像状態となって単純な平仮名やカタカナでないと分かりにくい。


 時子は夫の胸に幾度となく「ユルシテ」と書いた。 彼女のユルシテは、人間同士でも、神への赦しも俗さないというのが正解だと思う。(英訳ではforgive you となってるがここは綺麗な翻訳だと思う)偶然から生まれたようなものだが、これはカタカナであるべきなのだ。それから夫は子どもの悪戯書きのような文字を鉛筆で書いて、時子はそれを「ユルス」と見えるが、冷静なことを言ってしまうと実際のところ分からないというのが結論なのかもしれない。実際は夫は何て書いたのか分からない。私はそう思う。 


  妻が書き込まれた文字をカタカナの「ユルス」と見えたとき、すぐに時子にとって「許す」と漢字に変換される。これは妻の中に在った夫の声だと思って良いだろう。まるで声が近くなったようだからだ。長らくずっと聞けなかった夫の声を彼女は漸く思い返したのかもしれない。それが今の現実の夫の声とどれぐらいかけ離れているのか、重なっているのか分からないまま、夫は死んでしまう。


もたげていた鎌首、upraised headについて


英訳版では、ユルシテはForgive meとなっていた。そして、夫からのメッセージは
I forgive you!” と言ってるように見えたとあるが、これは在り得ないのかもしれない。何故なら、夫は四肢がなく口で挟んでしか鉛筆で文字が書けない上に、目も見えなくなっている。「ユルス」という三文字以上のものが書けるということは少しリアリティに欠けてしまう。せめて単語一つ、forgiveのみが良かったのではないかと思う。


英訳版では、この文字を見た後に、時子は涙で頬を伝って、眩暈を感じたとあるが、私が持っている日本語の原作ではこのような事は無い。

 
 Tears immediately welled in Tokiko's eyes, and she began to feel dizzy. 


恐らく、後半の夫のユルシを見越して、翻訳しにくかった箇所をそのように書いたのだろう。本当にここで夫が許し、妻が肉体的苦痛と共に改心したとするのなら刹那であるが確かな夫婦愛すら感じる。それも一つの捉え方として間違っていない。先ほども言ったように、夫の眼が潰れた後からは乱歩自身が色んな捉え方でもなるように妻の本質を拡散させているからだ。ただ、時子に涙を浮かばせてしまったら一つの答えが決まってしまう。それは一つの美徳に偏ってしまって少し残念なことだ。

 男女の間に起こる刺激は常に秩序によって整っているわけでは無い。何処までが愛情だといえて、何処からが単なる刺激なのか簡単に説明出来るものではない。


男女の間では、演繹的に「愛」だと確信出来ることもあれば、帰納的に「男女だから」としか言えないときがある。(もっと感覚的なものだが敢えて言うとするのなら) どんな男女でもこの両方を兼ねているだろう。乱歩自身は

「夢を語る私の性格は現実世界からどのような扱いを受けても一向に痛痒を感じないのである」
(政治的意味について・wikipediaより)


と言ったようだが『芋虫」は実のところ人間離れした、夢の話とも言えないだろう。理想の倫理から離れているだけであり、人間の作り上げることが可能な感情世界である。
夫婦の愛には望まれるものに「持続」というものがある。愛は持続を求めるが、時の流れや、状況の変化や、パートナーの変化や自分の変化、様々な要因が二人の間を蝕んでいく。この二人は無自覚にも、意図的にも「持続」の最中だった。


どんな馴れ初めで出会ったのか、元々恋愛関係であったのかどうかも知らない。夫婦の異常にも見える営みも、本来なら正当な「持続」である。他人にとって模範的でなくても、本人達にしか分からない「持続」があれば充分なのかもしれない。 特に、家庭というものは社会一般的や、他人の理想である必要は無いだろう。

 それでも人は何処かで植物の成長かのように筋の通った成長や秩序や法則を求めてしまう。そうじゃないと不安になり、恐れを持つようになる。少なくともそういう人間もいて、「時子」もその一人だった。肉体的な盲目と精神的な盲目、肉体的な盲目は夫だけだったが、精神的な盲目は二人とも抱えていた。時子はその恐れと共に闇へ闇へと落ちていった。夫は最後は「ユルス」と書き残して死んだようだが、最期の、鎌首をもたげたというものが引っかかる。先ほども言ったように、鎌首をもたげた(もたげていた鎌首)というのは戦闘体制への比喩表現である。軍人らしい死に方とは言えるが、確かなことは分からない。 捉える人から見れば「妻へ」かもしれない。



英訳版ではupraised headのみで、

「蛇のように」という一言が無かったことが残念だった。 これだと、彼には首と胴体だけしかないのだから、古井戸に吊るされただけのようにも見える。これは夫の世への怒りの象徴でもあったと思うからだ。私はそう思う。

ただ、事実はどうであれ、妻は「許された」と思っている。この全ての解答は妻のものになった。 この話は一見、世間が美談だと思っているような話の裏事情のようにも見せているが、推理小説を書いていた乱歩は錯視の天才だったようにそれが生きている。


許し、許された、夫婦愛、


このキーワードがこの二人の間に本当にあったのかを期待する人もいれば、無かったということに期待する人もいるだろう。人は愛にも虚無にも夢を抱くことがある。

二人の情念は「愛」「恵み」とは蚊帳の外のようなものだった。妻の五感は良くも悪くも、彼への執着へと感情が埋まっていく。希求は何度もしたのかもしれない。それでも妻は夫と闇の中にいることを選んでいた。それは快楽が故だったが、女としての喜びもまた妻としての喜びでもあっただろう。喜びと嫌悪感を繰り返し、皮肉なようだが、これも一途だったといえるのかもしれない。


「一途?」


乱歩は私のことも錯視へと陥らせる。わたくしの語りの着地点を何度も悩ませた。
「芋虫」という奇談、夫の許し、軍人としての死、それらを香らせ
最後まで「美談」という一本筋を通したような話だった。



今の世の美談だと思っています「どうか気を変えないで」