2017-04-10

The Mirror


















「鏡でも見るみたいに他人の生活を見てみるがよい」(テレンティウス・兄弟より)
難しい物語ほど、私に反芻されるデメアスの台詞。




  硝子が水に溶けて色が変色するように、タルコフスキーの「鏡」の記憶の世界は、彼の得意とする水の描写と共に変色しているようだ。鏡は溶けにくいように特殊な加工はされているが、湿気の多い場所や長らく水につけていると色がヤケ始める。廃墟のような部屋、脆い木材、天井が崩れていくこと、これらの映像は美しく磨かれた硝子とはかけ離れていくが、時間の流れにとって物質の衰えは自然なことであって、水によって老朽化を進まさせているとすれば、それはレーテー(忘却の河)を表しているようで、ミュトスとしても美しい。










 物語のオープニングは上手く話せない(吃音症)の少年が女医に合わせて言葉を繰り返すところから始まる。それからタイトル画面が出てきて、物語が始まる。

 主人公アレクセイは母の若い頃の夢を見たと語り始め、映像のように写り込む記憶を見てしまうが、観客も同時に、鏡でも見るみたいに他人の生活を見ることになる。但し、鏡の役割として、鏡を見るということは「私」であるということに留意してもらいたい。己を覗くように、観察するように、無自覚に、『身なりを整えるように』、他人の人生の流れを見ることになる。 


4月4日はアンドレイ・タルコフスキーの誕生日だった。毎年、春になると彼の話をしようと思うのだけれども、語る自信が無かった。実際に「鏡」とは*タルコフスキーの映画の中でも感想や批評が難しい映画だとも言われている。粗筋としては、主人公アレクセイは少年時代に過ごした別荘を思い出しながらモスクワで生活をする。


アレクセイの結婚した女性は何処か母親に似ている。(役者自体同一人物)それと同時に母に苦労をかけていたのではないかと、その思いが詩情となって映し出される。

 モノクロの映像が母親の映像で、カラーが現在と、交互に繰り返される構成で成り立っている。タルコフスキーのこの映画を撮影しているのは (Georgi Rerberg)で、朽ちて行く物質世界に相反して、モノクロ時代からカラー時代へと移ろいながらも変わらず栄えている草花や、貧しさながらにも香り立つ女性美を鮮明に映し出し、素晴らしいカットを数え切れないほど生み出している。


 この映画はアレクセイの母の紹介のようなものだ。しかし母への道案内は、観客に分かりやすく説明しようとしない『私』という信用出来ない語り手である。人の意識の流れ(stream of consciousness)のように、心の深いところを自由な連想と予測不可能な表現であるかと思えば、自己という鏡像を通して母、そして神の赦しの自覚など、心の深い部分を翻訳したかのように、秩序立てて語ろうとする。時々、タルコフスキー自身の声も挿入されているが、この映像は、narrated monologue(物語られた独白)ではなく、やはりnaratted poetry(物語られた詩)なのだと思う。


   先ほど『身なりを整えるように』と書いたけれども、心理の上でも人は他人を見て、他人と比較して自分を知るともある。実際に取材をしている上でも他人を観察しているようで、最終的には自分の隠れていた潜在意識が浮上してくる。

 良い映画を見た後や本を読んだ後は、音に敏感になったり自分を発見したりする。特にタルコフスキーを見た後は、子どもの頃に住んでいた家の軋む床の音が恋しくなったり、注がれる水の音、コーヒーの泡立ち、硝子の変色、草木の揺れ、鳥の鳴き声の強弱によって、鳥が自分の近くに来たかと思ったら遠くへ離れたことが分かる。硝子は薄っすらと自分の姿を映すけれども、硝子を通して外の景色を見ることが出来る。硝子を加工すると鏡となり、鏡になった途端、私を含めて全景色が全反転する。それを細かく切断されたものが私の手鏡(所有)となる。

自分と外の世界の繋がりへの共鳴と、他者の経験の追体験によって地味なことまでもが全て価値があるように思えてくる。だから時々、彼の映画を見ることにしている。



*stream of consciousness (思考の流れ)とは、心理学者 W・ジェームズの造語。西田幾多郎に示唆し、フッサールにも影響を与えた人。

タルコフスキーの映画の中でも感想や批評が難しい映画だとも言われている。→人から聞いた話なので確かなことは知りません。