2017-05-17

駆け込み訴へ(太宰治)








銀貨30枚を落とすユダ





イエス:「わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」

ユダ:いいえ、私は天の父にわかって戴(いただか)かなくても、また世間の者に知らされてなくても、ただあなたお一人さえ、おわかりになって下さったら、それでもう、よいのです。

イエス: 禍害(ワザワイ)なるかな、僞善なる學者(ガクシャ)、パリサイ(ファリサイ)人よ、汝らは 酒杯と皿との外を潔くす、されど内は貪慾と放縱(ほうじゅう) とにて滿つる(みつる)なり。(マタイの福音書23章25節)

ユダ:「おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀、なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! 

いいえ、ごめんなさい、
いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。金銭ゆえに、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されて来たのだっけ。いただきましょう。


私は所詮、商人だ。いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ(略)
はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ」


駆け込み訴へ(訴え)( 1940年 )―――太宰治 
(誰の台詞か分かるように人物名を入れました)


はじめに


「駆け込み訴へ」はイエスという名前は一度も出てこない。全編を要約すると、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は酷い。酷い。はい。厭な奴なのです」誰か分からない語り手から話は始まります。ペトロやヤコブへの悪口、文語訳の聖書の引用によって、読者は次第にこの語り手がユダではないか、あの人とはイエスではないかと思うようになります。そうして、有名な銀貨30枚を受け取るシーンとなる最後に語り手が「私の名は・・・・・・イスカリオテのユダ」だと名乗ることによって彼が愛して憎んだ「あの人」とはイエスだと確定する。
この作品は太宰の口述を妻が書き取ったものである。妻の証言によると太宰はこれを語る際、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言いなおしもなかったという。(推敲の末)妻はこのことについて、「畏れを感じた」そうだ。
それはまるで ユダに成りすましたと言えるのかもしれない。






聖書の脚色


 私は自分の出版作では、オスカーワイルドの「サロメ」を扱った。これも聖書、新約聖書の戯曲化、脚色であるが、オスカーワイルドは脚色しても良い場所を上手く選んだ。サロメとはマタイの福音書14章で、洗礼者ヨハネを監禁していたヘロデ王が、彼を殺そうと思っていたが世が支持していたため、ヘロデ王はヨハネを殺せなかった。ヘロデ王の誕生日に、ヘロディアの娘が皆の前で踊り、母親にそそのかされ、洗礼者ヨハネの首を盆に載せてくださいと言った。ヘロデはヨハネの首をはねるように指示をし、ヨハネの弟子達が遺体を引き取った後、イエスのところへと報告をした。このシーンをオスカーワイルドが、ヘロディアの娘を「サロメ」とし、洗礼者ヨハネを見つめる視線を恋のように準え、サロメに焦点を当てた。これは単に、「首が欲しくなるほど人に恋をした」と言わせるような話ではない。そんな感想は「思春期」で終わりにして欲しい。


 ヨハネの死の後のマタイの福音書15章、イエスはこれを聞くと、船に乗ってそこを去り、ひとり人里離れたところへと退かれた。私の作品ではこれをイエスの哀しみであり、サロメはイエスの哀しみを作ったのだと登場人物、川村光音の考えとして語らせた。 サロメの素晴らしさは、サロメをいくら語ったところで特に聖書解釈に大きな影響を与えないところだ。 それに加え、手に入れてはならない神秘に人が近づこうとするとどうなるのかというのを痛々しいほど語っている。サロメの影響でマタイの福音書14章から15章をまたぐ際に、私には文字と文字の隙間、虚空とも言える空白にヨハネの死が響いているように見えた。私はオスカーワイルドに脱帽した。オスカーワイルドは自身の癖や痕跡はサロメの台詞に残しつつ、自分自身の声を消すことに成功している。


 それと比べてみると、太宰のユダはサロメのような戯曲(演劇)ではなく「落語」のようなものなのかもしれない。落語は語り手は一人であり、登場人物への感情移入も6、7割程度で、話り手を重視する。そして大体の落語は有名な「饅頭怖い」のように、人間の内面を深く書くことはあまりない。落語の掟であるのなら、この作中のユダの心の内はいくら語れども深みなんか無いという結論になる。後戻りが出来ないような罪を犯した場合、世の声とはそうなるので、調子者、落語調にしたことは秀逸だと思う。


例えばこんな語りがある「ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集まり、ぞろぞろあの人について歩いて、背筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたのなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ」 これを朗読するとするのなら、落語のように少し軽快な喋り方が良い。演劇のように全身で捻くれたユダになりきってしまうと誇張しすぎてしまう。落語まで笑いを取るところまでいかなくても軽快さ、少々そのような調子が必要だと思う。


 確かに、ユダはイエスに期待していたが、イエスはユダが思ったような行動をしなかったのでユダは失望した。そういった心情は聖書からも読み取れるが、太宰のように「馬鹿な奴らだ」と、ここまで語られると、ユダの真の内面を言い当てたと言い難い。やはりこれは「太宰」(語り手)の声なのである。この調子者のような語りが余計に人間の不安定さ、哀れさが表れる。 この「駆け込み訴へ」のユダは太宰治の声であるからこそ、人間各々の不安定さが反映される。そうなると、実はユダらしくなるのでは? と、妙な言い方になってしまうが、今の自分には納得出来るものがある。


太宰とキリスト教



 太宰治も麻薬中毒者でフラつきながら、当時はまだ希少だった「聖書知識」のバックナンバーを借りたいと悲鳴のようなハガキを送ったりしていた。(桜桃とキリスト・長谷部出雄から参照)彼は他の宗教よりもキリスト教のほうに入れ込んでいるところがあった。洗礼は受けていないが、自分は父である主から見られていて、自分の罪は記録されているという意識があった。若い頃からカルモチン(睡眠薬)で自殺を試みる彼は、求めていたのは救済というより、戒律と己を比較して己の心の汚穢(おえ)を見つめていた。

オスカーワイルド「サロメ」との類似点は、人間の不安定な感情によってイエスの光が浮き出るということ、若しくは逆にイエスの光によって闇が濃くなるということだ。太宰のこの話は、ユダが口語体となって、卑しく書かれていることによって、イエスの文語の言葉が輝いて見えるようになっている。

ユダが「あの人」とイエスへとおくる視線は、ユダの心の内が混沌とすればするほどイエスが穏やかに見える。太宰は引用する聖書、マタイの福音書23章を敢えて古い文語訳にし、「禍害(わざわい)なるかな 偽善なる学者、パリサイ人よ」 と、文語ならではの淀みの無いリズミカルな魅力を引き出している。


 作品だけではなく、私生活と並べられて見られることは小説家として名誉なことか不名誉なことか、失礼になってしまいそうだが、この作品はまだ太宰治と妻との共同作業だったことで私は注目した。後に愛人となる太田静子や山崎富栄と出会う前の作品であり、そういった嵐の前の静けさのような作品だったということが私の中では魅力だと思う。夫婦愛に価値を重んじて言っているのではなく、何故、彼がユダを選び取ったのか、彼自身が自分の先を察知しているような魂の予感のように思える。妻はどの程度、夫のことを分かっていたのかは分からないが、それぞれの不安定な魂が人間郡となっている最中、この作品の影響で彼等の人生は文語訳の聖書が一本筋となって流れているように思えた。 


深みが無い哀しみ


  女から見た太宰と、男性から見た太宰、そして太宰と共に情死した富栄の父親から見た太宰、それぞれの証言が残ってしまっているからこそ、彼の発言の中に筋がなく、まるで実体がないように思われる。愛人、静子の子どもに太宰は、本名「津島 修治」の冶(はる)の名前を与えた。その命名と文(フミ)には誠意と謝罪が込められている。山崎富栄はそれに腹を立て収拾がつかなくなってしまったものだから、太宰は、「静子は所詮は「斜陽」(作品名)だけの女で、本当に愛しているのはお前でお前には「修」の名前を残す」と言った。修とは偶然にも、富栄の死んだ夫の「修一」と名前が重なっていた。
二人で死んだ後に、太宰は妻宛てには妻を一番愛していたと遺書を残してある。残された富栄の父親は、太宰とはどんな男だったのかと彼の書いた本を見たら、自殺、心中、薬、女、それだけの話しか書かない男に見え、愕然とした。太宰とはどんな男だったのか、証言が多ければ多いほど実体が分からなくなっている。


ユダは聖書では最後に後悔しお金を返しに行くが受け取ってもらえず自殺を図る。ユダが受け取った銀30枚とは奴隷を買う賃金と一緒だった。


「おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀、なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! 

いいえ、ごめんなさい、 いただきましょう」
・・・・・・ 「いいえ、ごめんなさい。 いただきましょう」
 
太宰の中のユダはこんな人だった。


 イエスを愛していたユダ、愛するが故に、独占したいが故に、どうせ彼が死ぬ運命なのなら自分がやってしまいたい思う。些細なことでいいのに、あの人は認めてくれない。だったら、売ってしまえ。いいや、私は商人だ。愛? そんな事考えちゃいない。ただ金が欲しかった。


いえ、愛していました。お金を返します、うけっとってもらえませんか、 じゃぁ死にます。 あの人を愛していたのに売ってしまった。 


やっぱり違います、ただ悪いことをしたということが居心地が悪くて死ぬのです。



もしも、太宰のユダが最後まで語るとしたらこんな感じじゃないだろうかと思う。きっとこのユダは愛という着地点につくことが出来ない。ユダの流れ着きたかった場所は何処だったのか、心理学では定立と反定立は共存すると認めていている。人間とは思考があり、神のように「主体」ただ一つではいられない。人間とは自分という主体と他人という客体によって関わりを持つ。主体一つの神と比べると、人間とは不安定な生き物である。




死ぬ気で恋愛しないか・・・・・・「人間失格」「グッド・バイ」

「子は親よりも大事、と思いたい。

子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、
何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ」(桜桃より)

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、

生きていさえすればいいのよ」(ヴィヨンの妻)







 太宰治とは学校でも「走れメロス」以外はあまり薦めない作家だった。それでも日本人としては知ってないと駄目だという暗黙の了解があった。昔は夏になれば「太宰治フェアー」があって、塾の講師が「夏になると、受験生は太宰の人間失格を読んだりする」 なんて冗談を言う。「太宰は自分勝手な人だった」と言う人もいるし、 「太宰は自己愛だけだ」という人もいるし「古事記では自殺した神もいるよ」「賢い人は考え過ぎるから自殺するのよ」と言う人もいた。 過去にまともだなと思った意見は「当時の薬って質が悪いから。薬のせいかもよ」 というものだった。でも、大人になると日本という国だけに限らず、人の生死の価値観は然程そこまで変わっていないように思える。自殺が多い国、少ない国という統計だけを見ても、少ない国が思想が立派で優れているということでもない。
戦前、戦後の時代、作家・芥川龍之介、太宰治、の自殺や情死は若い男女のインテリ層に刺激を与えたようだ。太宰と一緒に死んだ富栄の遺族は彼女の名誉回復のために彼女の日記を公開したが、批判が殺到した。皆、生きるのに必死だった時代に浪漫に翻弄されて好き勝手死んだようにしか思われなかった。それとは反対に太宰と富栄は浪漫の憧れともなった。先月まで当時、本当に自殺をしてしまった17歳の若い男性の日記を関係者から借りていた。彼もまた太宰・富栄のことを気にしている日があったようだ。内容は事情があって触れない。


インクの滲みで潰れてしまって読めない字もある中、日記だけでは実際の行動へと移る因果関係は分からないままだった。文学がそれを誘発したとは言い切れないし、彼等が弱音を正直に語ることによって返って生を見出す人もいる。他人の話を自分のことのように受け取ってしまうことが強い人は 晩年の作品は読まないのかもしれない。


 太宰はダンテの神曲やヴィクトル・ユゴーのノートル・ダム・ド・パリよりも説明することに気を使う。太宰の作品は中高生が読めるレベルの話しが多いが、それはあくまでも読みやすさであって、語るとなると難しい。自分にとっては一番難しい作家なのかもしれない。太宰の場合は作品と私生活を完全に切り離してみても結局のところ、死の欲求については避けては通れない。太宰は病気だったので仕方がなかったとも言えるけれども、やはり自ら生を放棄するようなことを選択するということについて、語るというのは難しい。(というのは、SNS・ブログの限界で、書くとするのなら書籍に粗筋で予め知らせておいて読者に了解を取ってもらったほうが良いという意味である)それでも、私は最後はこの「駆け込み訴へ」で引用されたマタイの福音書の23章を拾おうと思う。

マタイの福音書。23章25節、

禍害なるかな、僞善なる 學者、パリサイ人よ、汝らは 酒杯と皿との外を潔くす、されど 内は貪慾と放縱 とにて滿つるなり。


イエスは律法だけを守り、中身が形骸化しているファリサイ派の 人々にと外だけ綺麗にして、内は汚れていると警告しているが、 太宰は引用しなかったが重要な続きがある。


26節、 盲目なるパリサイ人よ 汝まづ酒杯の内を潔めよ、 さらば 外も清くなるべし。


私から言えることは、もしも「物語」の中だとか「小説」世界で、生死の価値観が混沌として辛くなったのなら、この杯の内側も綺麗にせよというのを参考にして欲しい。


 信者なら意味が分かると思うことだし、そうでないのならとりあえず、調べてくれると嬉しいが、言葉から感じ取る自身の共感覚を大事にしてほしい。


人間を表す表現は、一方方向の表現では成し得ない。聖書の中の人間が見た神秘についても同様である。神学や哲学だけがあっても足りない。小説、音楽、落語、様々な表現が必要なのである。イエスの意味を知っている作家は必ず分かっているはずなのだ。どんなに自分の筆が冴えても、イエスの言葉には敵わないということ、作家は神の御言葉が「借りものの言葉」とならないように、それが自分の内面が動いて、自分の個性として、他者にも通じる言語となることを待っている。


常にそのために感性は息づいていて、自分の言葉に息吹が吹かれる瞬間を待っている。
抽象的なものまで整然と言語化し、他人に伝わる言語となるのは容易ではない。
このユダが「あの人」と視線を向けるだけで、光は揺るがなかった。 彼等の心の中にイエスはいたということだ。推敲の末に口述で語れたというのはそういうことだと思う。運命はどうであっても、イエスはどんな人の中にもいる。それを信じるのもまた信仰である。


太宰は、ユダの悪が強ければ強いほどイエスの優しさの光が増すと言っていたようだが、私は少しこれとは違う。 人間が陥る運命に対して、誰かの理解や愛があることによってイエスの優しさが増すのだと思う。人間は主体だけでは生きられないが故、理解が必要なのだ。丁度、本を通して読者が太宰やこの本を好きになるように。深みとは、己のみの深みは孤独になることがある。他人の理解はどんな孤独への深さにでも、慈しみを与える。


「わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかって下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」


この言葉だって理解無しでは光だと気づかない。ユダは彼をイエスとは一度も言わなかったのだから。私は、そうだと確信があり愛はうごめいたが、もうこれ以上は語れない。


Н. Ге. Совесть. Иуда. 1891(ユダの良心)