2018-03-26

出家とその弟子




お前のさびしさは対象によって癒されるさびしさだが 、私のさびしさはもう何物でも癒されないさびしさだ 。人間の運命としてのさびしさなのだ 。(中略)

さびしい時はさびしがるがいい 。運命がお前を育てているのだよ 。

親鸞 (出家とその弟子)より。







 これは倉田百三による戯曲で、実際に親鸞が言ったわけではないのでしょうが、著者は歎異抄を何度も読み、これを歎異抄の解説とした。著者は熱心な浄土真宗だった。

私はカトリック信者だが、イエスを見ているからこそ、親鸞の人間味をより感じ、この言葉に感傷深さを感じる。これは闇の優しさなのだ。無理に光を灯さないこの優しさは、真の孤独を癒してくれる。緩やかに絶望を受け入れることによって、運命に乗って実は一歩前に出るのだ。無理に光や希望で絶望に蓋をすることはない。

イエスも処刑前夜は叫んだりと人間らしいところがあったが、教えでは「完璧」とされている。 それに比べると親鸞は仏教の天台宗では落ちこぼれであったことは明るみに出ている。

親鸞が説いたとされる教えは、歎異抄となって弟子、唯円によって書かれたとあるが本当のところは分からないらしい。そしてこの本は秘教のようなものだ。どんな悪人も赦されると記しているからだそうだ。歎異抄の最後にはこう書かれてある。

仏心が無ければ読まないで欲しいと。

高校が浄土真宗の学校だったが、この歎異抄の最後だけ知って読まなかった。(現在は読了)
それに比べて聖書はホテルにおいてあったり、扉が開いているように思えた。 けれども、最初に扉が開いていても、途中で重たく閉じているものだし、最初は扉が閉じてあっても、後で自然と開くものだと分かった。

文学は審美眼が必要だ。私がこうやって仏教を目にすることによって、審美眼が鍛えられることを願う。

「運命がお前を育てている」

私は 彼に言われる前からいつもそれを信じ、いつのまにか主の呼びかけとなった。
運命と主、その違いはまだはっきりと分からないが、どちらにしても
「育てられている」と思うのだからこそ生きていられるのかもしれない。

他に印象に残ったのは「恋愛」の章だが、この話はまた機会があれば。


*****


そんな私でも、チャイルドスポンサーの5歳の子ども(フィリピン)には
「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える」
(ゼパニヤ3:17)

「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます」

(詩篇 13:5)


というカードを送る。言葉は人を育てるし、私も光を知っているからだ。
光は蝋燭の炎のように分け与えるべきであり、闇は深淵のように自分で気付くべきなのだ。だから、人に贈り物をするときは光が望ましいのではないのだろうか。誰しも十字架を背負い、闇を持っているのだから。