2018-04-20

Dekalog episode1








デカローグ エピソード1「運命に関する物語」



クシシュトフは神や魂を信じていない男だった。彼の妹は敬虔なカトリック信者で愛と神を信じていた。その兄妹の間で彼の息子、パヴェヴは育った。パヴェヴが「人は死んだらどうなるの?」とクシシュトフに尋ねると、彼は「その人がしてきたこと」「その人の周りの人にはその人の記憶が残る」と答えた。それに息子はこう返した。「人は思い出のために生きているの?」と。















クシシュトフとパヴェヴはとても仲の良い親子だ。一緒にチェスを打ったり、コンピューターに質問をしたりする。パヴェヴは池の氷でスケートを滑りたがっていたので、二人はコンピューターで滑れるかどうか、氷の厚さを測っていた。ワルシャワの厳しい寒さの中、漸くパヴェヴが待ち望んでいた日が訪れる。コンピューターによると最高のスケート日和だと結果が出たのだ。父親も事前に本当に大丈夫かどうかを確認しに池の氷の上を歩いている。それでも、悲劇は起きてしまった。氷が割れてパヴェヴは池に落ちて命を落としてしまう。パヴェヴが池に落ちた時間帯に、クシシュトフは翻訳機械についての論文を書いていた。そこで息子の死を暗示するかのように、突然、青いインクの大きな染みが出来る。その前に、彼は大学の講義で、コンピューターには選別能力、つまり意志があり、意識があると言っていた。まだプログラムされる一方だから、人間の意識とは一緒に出来ないが、コンピューターにも個性があると言っていた。そして、エリオットの「詩は翻訳不可能なものを謂う」というのに対してこうも付け足した。「コンピューターは夢を見ている」と。

私はこの場合の「詩」とは信仰のことであり、コンピューターとは日常だと思っている。カトリックは共同体と言うが、各々が抱いている信仰心は翻訳不可能であり、人間の日常は俯瞰視点だとプログラミングされたように動いているからだ。それでも人々の日常は個性があり、日常とはまるで夢の世界のように説明がつかない。
 
 鑑賞者として人の運命を見るということは結局のところ自分の運命と照らすことになる。まるで他人の人生を見て、自分用に翻訳するみたいだ。この話の悲劇は誰しもが翻訳しやすい「神」であり、共感出来る「神」であろうと思う。けれども受け入れがたい話である。実在者であった息子の存在が消え、魂という曖昧な存在になってしまった時に、クシシュトフにとって息子の非存在は神と同列になったと体感したのかもしれない。彼にとっては魂も神も同列の拒絶していた存在だったからだ。だから、建設途中の祭壇に飾られている聖母マリア画へと向かったのだろうと私は思う。そして彼は祭壇に手をかけて押し倒してしまう。


例えば、

Aを拒絶し、Aを受容しない生き方は可能である。その代わり、持続する信念が必要だとする。

神を拒絶し、神を受け入れない生き方は可能である。しかし、人間に愛という必要な感情でもあり不確かな感情があり続ける限り、その信念は脆くなってしまうのではないのだろうか。彼が聖母マリアの元へと足を運んだように。

なぜなら、神は人間を愛しているのだというのだから、心をかき乱さずにはいられない。特に大切な人を失ってしまった後は。


十戒 1.「あなたは私の他になにものにも神としてはならない」








デカローグ エピソード8について
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